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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。    同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
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原題:The Kids Are Alright
製作年:2010年
製作国:アメリカ
監督:リサ・チョロンデコ
出演:アネット・ベニング、ジュリアン・ムーア、マーク・ラファロ、
ミア・ワシコウスカ、ジョシュ・ハッチャーソン



________________________________________


「新しい家族の在り方」の模索は、
2000年代ゲイ映画の主要テーマのひとつであった。
そこでは主に「前例のない中で、これからどうやって家族を作っていくか」が
語られていたが、
本作ではあらかじめ、主人公のレズビアン・カップルに
18年の子育てキャリアが与えられている。
つまり新しいかたちの家族が誕生して、その後どうなったかを描こうとしているのだ。
マイノリティの権利闘争が、現実として最も活発に行われているアメリカならではの、
一歩進んだゲイ映画であり、ファミリー映画でもあるというわけ。

面白いのは、従来映画の中でゲイとストレートに与えられてきた
それぞれの役割が、本作の中では反転していること。
家族を大切にして生きているのはゲイの方で、
ストレートは自由気ままに生きていくために、
孤独の恐怖から目を逸らしている。

ゲイの僕は当然心情的に、レズビアン・カップルに加担した。
ジュリアン・ムーアとマーク・ラファロの濡れ場は
たまらなくイライラと来たのだが、
さて現実に自分の生き方はどうなのだろう、と考えてしまう。

ゲイの婚姻制度が今後数十年の間、もしかしたら永遠に成立しそうもない
日本に生まれたからという背景もあるが、
僕の人生の中に”家族を作る”という選択肢は存在していない。
もちろんアメリカでさえ、まだまだ大半のゲイは僕と同様の考えであるはずだ。

鑑賞後はとりあえず、ストレートの男性が
家族へ迎え入れられない展開に溜飲を下げたのだが、
その惨めな姿はほかならぬ、自分自身の末路なのかもしれない。
さまざまな労苦と責任に背を向け、
享楽的な人生を送ったからには、
その後ある種の虚無や孤独と直面することを、避けては通れないのだ。
そこにゲイ/ストレートという、セクシュアリティの差はないのである。
ほかならぬゲイに向けても、
「いま一度ライフスタイルの再考を」と促す監督の意図が、
本作には充分に込められている気がしてならなかった。

賞レースでは主にアネット・ベニングへの評価が集中したようだが、
個人的には今回も、ゲイがらみの作品を選んだジュリアン・ムーアに好感を持った。
記憶に新しいところでは『シングルマン』での助演、
さらにトッド・ヘインズ(『エデンより彼方に』『ケミカル・シンドローム』)や、
トム・クレイン(『美しすぎる母』)など、ニュークイアシネマ系監督のミューズとして、
映画好きのゲイには無視できない存在である。
角度によっては希代のゲイアイコン、マドンナにも似ているしね~★

ポチッとお願いいたします★

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原題:人民公厠
製作年:2002年
製作国:香港/韓国
監督:フルーツ・チャン
出演:阿部力、サム・リー、チョ・インソン、
チャン・ヒョク、マ・チェ



___________________________________

2000年代前半に最も注目された香港の監督のひとりである、フルーツ・チャンの作品。
出世作『メイド・イン・ホンコン』では、
素人だったサム・リーを一躍スターダムへと押し上げた功績のある監督だが、
本作では日本や韓国の若手イケメン俳優を多数起用し、
風変わりな青春ロード・ムービーに仕立てている。

糞尿、されど……

排泄という行為は生物の日常であるにも関わらず、
映画の中ではセックス以上に描かれることが少ない。
タブーというよりはまさしく、「臭いものに蓋をしている」感がある。
僕の観た映画の中では、ペドロ・アルモドバル監督だけが
敢えてこの”周知の無関心”にコンシャスであろうとしており、
脱糞シーンをギャグのハイライトとして用いたり、
進行の中に非常に自然な排尿シーンを挿入したりしていたのが印象的で、
好感を持っていた。

以前小澤征爾のエッセイを読んだことがあるのだが、
その中で彼が中国に留学した際、人々が敷居のない公衆便所で
車座になって排便している光景に驚き戸惑った、というくだりがあった。
いくら”郷に入っては郷に従え”というセオリーがあったとしても、
僕にはそんな排便、絶対無理である。
しかしそうした公衆便所が、2000年代にも中国ではまだ健在であったことを、
この映画は示していた。
「信じられない」「野蛮」と糾弾するのは簡単なのだが、
元を正せば人間全員がすることである。
「何が恥ずかしいのか」という思想がその背景にあるような気がして、
中国人の器がデカさが、妙に眩しく感じられてしまう。

また僕は大学生のとき、インドを旅したことがある。
長距離を電車で移動することもあったのだが、
そんな時、車窓から朝の畑の風景が目に入ってきた。
すると一定の距離を保って、ポツリポツリと人が座っているのである。
そう、彼らは畑に排便していたのだ。
なぜこんなことを書いたのかというと
この映画が、人間の便が含む栄養分についてまで言及していたからである。
体内の不用物として排泄されるものを、栄養として吸収する需要が自然界にはあり、
それは汚いことでも醜いことでもなく、むしろ美しいことなのだということを、
本作はメタファーを用いながら語りかけてくるのだ。

下水道の整備は、インフラの最重要課題のひとつである。
つまり「臭いものに蓋をできる」ことは豊かさの表れであり、
西洋文明は「糞尿にまみれるのをいかに回避するか」を念頭に置きながら、
発展してきたといっても過言ではないのかもしれない。
しかし何度も言うようだが、元を正せば人間全員がすることだ。
地球上の生物の中で最も高度な自意識をもつ人間という生物が、
排便を恥と捉えたばかりに栄養循環のサイクルを断ち切ったり、
便器を発達させた揚句、粗大ゴミとして遺棄したりするのは、
途方もなくナンセンスなことなのではないか、
と改めて問題提起するかのような作品だった。

いまのところ、最後の野心作

フルーツ・チャン監督の作品の中で、
僕は『ハリウッド★ホンコン』が最も好きである。
大陸と香港との間に広がる断絶にこだわってきた監督の集大成ともいえる、
野心的かつ洗練された作品で、ジョウ・シュンの妖しい魅力が全編に輝きを放っていた。
本作は俳優陣こそ多彩だが、いま一度原点に立ち返ったかのような
インディ精神がみなぎっている。
個人的には2000年代に流行した、フィルムではないデジタルカメラの映像が
あまり好きではないのだが、その身軽さのお陰で
中国、韓国、インド、ニューヨークという大陸横断も可能になったのだろう。
監督自身が新しいテーマに挑戦しているところにも好感を持ったのだが、
ここ数年、”らしい新作”の音沙汰がないのが、やや心配。
『女優霊』のハリウッド・リメイクなんかを担当したようだが、
一体どうしちゃったんだろう。
「私は自由に映画を作りたいのです」と語っていた言葉通り、
才気あふれる作品を発表し続けてほしいものだ。

最後に、この映画について書いているネット上のブログをチェックしていたのだが、
ほとんどがイケメン俳優陣にしか興味のない、腐マ●コのレビューばっか。
当然本作の持つ大きなテーマに蒙を開かれることはなく、
「汚い」「生理的に受け付けない」とヒステリックに喚くばかりの内容で、
読むに値するものはひとつもなかった。
自分だって毎日、トイレに行ってるくせに、バッカじゃないの。
蛇足だが本作の名誉のために、どうしても書き加えたくなった次第だ。

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原題:Totally Fucked Up
製作年:1993年
製作国:アメリカ
監督:グレッグ・アラキ
出演:ジェームズ・デュヴァル、ギルバート・ルナ、
ランス・メイ、ロコ・べリック、スーザン・ベイシッド、ジェニー・ジル



_______________________________________________

 ・既存のハリウッド・エンターテインメントにうんざりしていること。
 ・そして既存のゲイ文化にうんざりしていること。

このふたつの皮膚感覚が備わっている者にしか、
本作の真価は伝わらないのかもしれない。

僕は確か、公開当時にミニシアターでこの映画を鑑賞していると思う。
でもガツンとやられた印象は、まるで残っていなかった。
当時の僕は、映画そのものをそれほど観ていたわけではない。
だからどんな映画がインで、どんな映画がアウトか、
選別できるほど明確な自分の意見を、何も持たなかったのである。
低予算で有名な俳優も登場せず、
ハンディカメラで照明もろくに計算しないまま撮影しているような
インディペンデント作品に、映画としてどんな意義があるのか、
全く判らないまま観賞していたのだ。

80年代末~90年代初頭は、既存の価値観に飽き飽きしている者たちの
オルタナティヴな感性が大爆発して、
一気にメジャーへと雪崩れ込み始めた重要な時期にあたる。
そんな中でたまたま、新進気鋭かつゲイである映像作家
(ガス・ヴァン・サント、トッド・ヘインズ、トム・クレイン、
そして本作の監督、グレッグ・アラキなど)の頭数が揃い、
便宜上”ニュー・クイア・シネマ”というムーブメント名称が生まれた。
ゲイやレズビアンといった、既存の価値観では全否定される
セクシュアル・マイノリティを肯定するアティチュード、
そしてその肉声を描く新鮮さは世界的に歓迎され、
ストレートの若者たちにも受け入れられた。
特に90年代以降、ストレートの新進監督がこぞって
ゲイの登場する映画を撮った中華圏には、その影響が如実に現れている。


本作はまた、ゲイの間に生じる世代間の断絶も描いている。
こと音楽面に関して、公開当時の僕は、
間違いなく「こっち寄りのゲイ」だったことを、懐かしく思い出してしまった。
若者たちの部屋に貼られたポスターを飾るジーザス&メリー・チェイン、
フロント242、スミス。台詞の中にも登場するコクトー・ツインズ、キュアー、
ミニストリー。作品中に曲が流れるヒズ・ネイム・イズ・アライヴ、
レッドハウス・ペインターズなどのバンドは僕にとって、
非常に親しみのある存在であり、心の支えでもあった。
しかし当時の新宿二丁目といえば、ユーミン、みゆき、聖子などが人気で、
さらに槙原敬之など、年は若くともやっていることは
非常に保守的なミュージシャンたちが支持されていた。
はじめてゲイクラブに足を踏み入れた頃は、
UKものよりもNYのガラージュ系ハウスが主流で、
「こんなユーロビートみたいな音で踊れるかよ!」と、憤慨したものである。
本作の登場人物たちも、バーブラ・ストラサインドやベッド・ミドラー、
ダイアナ・ロスのような70~80年代のゲイ・アイコンに対して、敵意を剥き出しにする。
ニルヴァーナなどが世界的な人気を博した90年代は、
ロックがカウンター・カルチャーとして機能した、最後の時代だったのだ。

あれから20年近くが経過し、公開当時にはどこか他人事のように思えた、
彼らの性に共感を憶えられるようになった(結構晩熟だったのであるw)。
ダンス・ミュージックの存在意義も身体でわかるようになり、
ひと昔前のアイコンがなぜゲイに支持されていたのか、理解できるようにもなった。
そして何より、映画をたくさん観たことで、
アメリカ映画史における本作のユニークな存在意義を実感し、
愛おしく思えるようになったのである。
これを成長といわずして、何と言おう。
未見のアラキ作品を、これから観なくては!

ポチッとお願いいたします★

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原題:Ricky
製作年:2009年
製作国:フランス/イタリア
監督:フランソワ・オゾン
出演:アレクサンドラ・ラミー、セルジ・ロペス、
メリュジーヌ・マヤンス、アルチュール・ペイレ



___________________________________

『しあわせの雨傘』の1個前にあたる作品。
公開時は見逃したのだが、名画座のスクリーンで鑑賞できた。

本作のテーマは”シングル・マザー”。
といっても安っぽい応援賛歌ではない。
オゾン監督らしい批評精神の込められた、口に苦い良薬といった趣である。

僕の友人にもシングル・マザーがふたりいる。
いずれも夜遊びのなか知り合った女性で、
お世辞にも器用に人生を生きていくタイプとは言いがたい。
共通しているのは、人生の舵取りを自らの手で行いたい思いが強いこと。
自由でいたいと願う分、他人からの援助を素直に受け付けない厳しさも
漂わせているのだ。
この点については多いに共感してしまうだけに、
損をすることも多いはず、と容易に想像がつく。

本作のヒロインはすでにひとりの子供を女手ひとつで育てており、
シングル・マザーの労苦を味わい尽くしている。
新しい男性と出逢い、幸せを感じたとしても、
どこかで相手や将来に関する疑心暗鬼の念が
湧き出るのを、抑えきれない。
心に傷があるからだ。
その相手との間に新しい命が芽生えたことで、
彼女の心は喜ぶよりもさらに頑なとなり、周囲に対して心を閉ざし、
自らシングル・マザーの道を選ぶような成り行きをたどってしまう。

占いなどに
 「愛されることを恐れないで」
 「幸せになることを、怖がっていませんか?」
などというくだりを目にすることはよくあるが、
シングル・マザーにとって、これほど耳の痛い言葉もないだろう。
彼女たちは自分の行動の責任を取るべく、
子育ての労苦を一身に背負ってきた存在なのだ。
男や他人を容易に心を開けなくなっていたとしても、無理はない。
しかしそんな潔さや頑なさゆえに、
その後の幸せを一切見送らなければならないのだとしたら、
それはあまりに救いがなく、悲しい人生なのではないか。

本作はそんなシングル・マザーに向けた、現代のおとぎ話である。
よくできた特殊技術や、ハリウッド映画並の映像編集も駆使されているが、
娯楽の域には留まらない、繊細なメッセージが織り込まれている。
さすがフランス映画という感じだ。
ひとの心のやわらかい部分に踏み込んでくる、
監督の”どS”ぶりは健在なのだが、
この作品を観たシングル・マザーたちの心は、癒し諭され、
新たな希望に対し、前向きになれるのではないだろうか。


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原題:후회하지 않아
製作年:2006年
製作国:韓国
監督:イソン・ヒル
出演:イ・ハン、イ・ヨンフン、キム・ジョンファ、
チョ・ヒョンチョル



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韓国のゲイ映画ということで鑑賞してみた作品。
監督のイソン・ヒルはこれがデビュー作で、
自らのセクシュアリティもカムアウト済みらしい。

インディペンデントに製作された作品ということなので、
それなりの覚悟(?)を持って観始めたのだが、やんちゃな破綻は少ない。
メジャー作品といわれても、はぁそうですかと納得してしまうような
出来栄えであり、それはもしかしたらすごいことなのかもしれないが、
ちょっと小器用にまとまりすぎているような印象を受けた。

絵作りの方も平均的に、上手にこなしており、
光の計算された繊細な画面が印象に残る。
夜の車中を追う場面と、屋上の場面が何度も出てくるので、
嫌でもウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』が想起されるが、
相当影響を受けているのか、或いは確信犯的なオマージュのつもりなのかもしれない。

基本的にプロット重視で、
魅力的だがさほど達者とも、自然ともいえない役者たちの演技が、
前面に押し出された作品である。
テレビドラマじゃないんだから、
もう少し映画的な演出を見せてくれてもいいのに、と思ってしまった。
背中がムズムズしてくるようなクサい台詞もあったりして、
結構コンサバなんだな、と感じずにはいられない。
大体登場人物を、孤児院出身にするという設定もちょっと、時代錯誤な気がしてしまう。
韓国の抱える貧富の差を問題提起したいのならわかるのだが、
そういう意図でもないんだろうし……。

そんなこんなで隠れホモが引き起こす、
凡庸な悲劇へと雪崩れ込む展開にうんざりしかけたのだが、
終盤にはちょっとした新鮮さが感じられた。
ゲイ同士の痴情のもつれによる、ここまでダイレクトな復讐の描写というのは、
これまでのどのゲイ映画にも例を見ない気がしたのだ。
隠れホモは保身を優先する”自己中”なので、
こうした修羅場が実際にあったとしても、決して不思議ではない。
本作のアイデンティティは、ここにありか!、と感じ入りかけたのだが、ちょっと待てよ。
そういえば韓国には、復讐3部作で世界的な評価を得た、
パク・ヌチャクがいましたっけ。
とすればこれも、トレンドの追従の一種に過ぎないのかもしれないなぁ……。
ラストのユーモアもなんだか唐突だし、
どうも個性が定まっていないな、という印象を拭い切れなかった。

こうして観ると、近年のアジアではやはり、
中華圏の映画の面白さが抜きん出ている気がしてしまう。
韓国や日本にももっと、頑張って欲しい。
それにはもっともっと、エンタメにうんざりしなきゃダメなんだろうけど、
肝心の若い世代がテレビ漬けじゃあね。
でも僕も、もっと韓国の映画を観てみなきゃいけないなと思った次第。


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material:ふわふわ。り  template:ゆずろぐ

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