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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。 同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
原題:Totally Fucked Up
製作年:1993年
製作国:アメリカ
監督:グレッグ・アラキ
出演:ジェームズ・デュヴァル、ギルバート・ルナ、
ランス・メイ、ロコ・べリック、スーザン・ベイシッド、ジェニー・ジル

_______________________________________________
・既存のハリウッド・エンターテインメントにうんざりしていること。
・そして既存のゲイ文化にうんざりしていること。
このふたつの皮膚感覚が備わっている者にしか、
本作の真価は伝わらないのかもしれない。
僕は確か、公開当時にミニシアターでこの映画を鑑賞していると思う。
でもガツンとやられた印象は、まるで残っていなかった。
当時の僕は、映画そのものをそれほど観ていたわけではない。
だからどんな映画がインで、どんな映画がアウトか、
選別できるほど明確な自分の意見を、何も持たなかったのである。
低予算で有名な俳優も登場せず、
ハンディカメラで照明もろくに計算しないまま撮影しているような
インディペンデント作品に、映画としてどんな意義があるのか、
全く判らないまま観賞していたのだ。
80年代末~90年代初頭は、既存の価値観に飽き飽きしている者たちの
オルタナティヴな感性が大爆発して、
一気にメジャーへと雪崩れ込み始めた重要な時期にあたる。
そんな中でたまたま、新進気鋭かつゲイである映像作家
(ガス・ヴァン・サント、トッド・ヘインズ、トム・クレイン、
そして本作の監督、グレッグ・アラキなど)の頭数が揃い、
便宜上”ニュー・クイア・シネマ”というムーブメント名称が生まれた。
ゲイやレズビアンといった、既存の価値観では全否定される
セクシュアル・マイノリティを肯定するアティチュード、
そしてその肉声を描く新鮮さは世界的に歓迎され、
ストレートの若者たちにも受け入れられた。
特に90年代以降、ストレートの新進監督がこぞって
ゲイの登場する映画を撮った中華圏には、その影響が如実に現れている。
本作はまた、ゲイの間に生じる世代間の断絶も描いている。
こと音楽面に関して、公開当時の僕は、
間違いなく「こっち寄りのゲイ」だったことを、懐かしく思い出してしまった。
若者たちの部屋に貼られたポスターを飾るジーザス&メリー・チェイン、
フロント242、スミス。台詞の中にも登場するコクトー・ツインズ、キュアー、
ミニストリー。作品中に曲が流れるヒズ・ネイム・イズ・アライヴ、
レッドハウス・ペインターズなどのバンドは僕にとって、
非常に親しみのある存在であり、心の支えでもあった。
しかし当時の新宿二丁目といえば、ユーミン、みゆき、聖子などが人気で、
さらに槙原敬之など、年は若くともやっていることは
非常に保守的なミュージシャンたちが支持されていた。
はじめてゲイクラブに足を踏み入れた頃は、
UKものよりもNYのガラージュ系ハウスが主流で、
「こんなユーロビートみたいな音で踊れるかよ!」と、憤慨したものである。
本作の登場人物たちも、バーブラ・ストラサインドやベッド・ミドラー、
ダイアナ・ロスのような70~80年代のゲイ・アイコンに対して、敵意を剥き出しにする。
ニルヴァーナなどが世界的な人気を博した90年代は、
ロックがカウンター・カルチャーとして機能した、最後の時代だったのだ。
あれから20年近くが経過し、公開当時にはどこか他人事のように思えた、
彼らの性に共感を憶えられるようになった(結構晩熟だったのであるw)。
ダンス・ミュージックの存在意義も身体でわかるようになり、
ひと昔前のアイコンがなぜゲイに支持されていたのか、理解できるようにもなった。
そして何より、映画をたくさん観たことで、
アメリカ映画史における本作のユニークな存在意義を実感し、
愛おしく思えるようになったのである。
これを成長といわずして、何と言おう。
未見のアラキ作品を、これから観なくては!
ポチッとお願いいたします★
製作年:1993年
製作国:アメリカ
監督:グレッグ・アラキ
出演:ジェームズ・デュヴァル、ギルバート・ルナ、
ランス・メイ、ロコ・べリック、スーザン・ベイシッド、ジェニー・ジル
_______________________________________________
・既存のハリウッド・エンターテインメントにうんざりしていること。
・そして既存のゲイ文化にうんざりしていること。
このふたつの皮膚感覚が備わっている者にしか、
本作の真価は伝わらないのかもしれない。
僕は確か、公開当時にミニシアターでこの映画を鑑賞していると思う。
でもガツンとやられた印象は、まるで残っていなかった。
当時の僕は、映画そのものをそれほど観ていたわけではない。
だからどんな映画がインで、どんな映画がアウトか、
選別できるほど明確な自分の意見を、何も持たなかったのである。
低予算で有名な俳優も登場せず、
ハンディカメラで照明もろくに計算しないまま撮影しているような
インディペンデント作品に、映画としてどんな意義があるのか、
全く判らないまま観賞していたのだ。
80年代末~90年代初頭は、既存の価値観に飽き飽きしている者たちの
オルタナティヴな感性が大爆発して、
一気にメジャーへと雪崩れ込み始めた重要な時期にあたる。
そんな中でたまたま、新進気鋭かつゲイである映像作家
(ガス・ヴァン・サント、トッド・ヘインズ、トム・クレイン、
そして本作の監督、グレッグ・アラキなど)の頭数が揃い、
便宜上”ニュー・クイア・シネマ”というムーブメント名称が生まれた。
ゲイやレズビアンといった、既存の価値観では全否定される
セクシュアル・マイノリティを肯定するアティチュード、
そしてその肉声を描く新鮮さは世界的に歓迎され、
ストレートの若者たちにも受け入れられた。
特に90年代以降、ストレートの新進監督がこぞって
ゲイの登場する映画を撮った中華圏には、その影響が如実に現れている。
本作はまた、ゲイの間に生じる世代間の断絶も描いている。
こと音楽面に関して、公開当時の僕は、
間違いなく「こっち寄りのゲイ」だったことを、懐かしく思い出してしまった。
若者たちの部屋に貼られたポスターを飾るジーザス&メリー・チェイン、
フロント242、スミス。台詞の中にも登場するコクトー・ツインズ、キュアー、
ミニストリー。作品中に曲が流れるヒズ・ネイム・イズ・アライヴ、
レッドハウス・ペインターズなどのバンドは僕にとって、
非常に親しみのある存在であり、心の支えでもあった。
しかし当時の新宿二丁目といえば、ユーミン、みゆき、聖子などが人気で、
さらに槙原敬之など、年は若くともやっていることは
非常に保守的なミュージシャンたちが支持されていた。
はじめてゲイクラブに足を踏み入れた頃は、
UKものよりもNYのガラージュ系ハウスが主流で、
「こんなユーロビートみたいな音で踊れるかよ!」と、憤慨したものである。
本作の登場人物たちも、バーブラ・ストラサインドやベッド・ミドラー、
ダイアナ・ロスのような70~80年代のゲイ・アイコンに対して、敵意を剥き出しにする。
ニルヴァーナなどが世界的な人気を博した90年代は、
ロックがカウンター・カルチャーとして機能した、最後の時代だったのだ。
あれから20年近くが経過し、公開当時にはどこか他人事のように思えた、
彼らの性に共感を憶えられるようになった(結構晩熟だったのであるw)。
ダンス・ミュージックの存在意義も身体でわかるようになり、
ひと昔前のアイコンがなぜゲイに支持されていたのか、理解できるようにもなった。
そして何より、映画をたくさん観たことで、
アメリカ映画史における本作のユニークな存在意義を実感し、
愛おしく思えるようになったのである。
これを成長といわずして、何と言おう。
未見のアラキ作品を、これから観なくては!
ポチッとお願いいたします★
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