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lulabox
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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。    同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
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製作年:2011年
製作国:日本
監督/脚本:園子温
出演者:水野美紀、冨樫真、神楽坂恵、大方斐紗子、津田寛治



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「かの東電OLに自分探し女の総体が弟子入り」という虚構を構築しているが、
その前提にちと苦しいものがある。
混乱した馬鹿女は、ハードボイルドな娼婦に共鳴くらいはするかもしれない。
しかし「その後、彼女の荒廃に潔く同化する」という発想は
飛躍的で、どこか理想的。男の妄想の域を出ていない。

また全編に詩やカフカの引用を散りばめるという手法も古く、
近年の監督ですら文学や舞台演劇の呪縛から逃れられていないのか、
と残念に思いながら眺めた。

ただし冨樫真の操るラインには、魅力的なものもいくつか。
個人的には「秘密を持っている者は、他人の秘密も慎重に扱う」
というくだりにロマンを感じた。
現実の東電OLエピソードも、脚本へ効果的に取り入れられている。

前半の悪い意味で単調な画面、
工夫も味もない照明・舞台美術は、大幅な減点対象。
Vシネじゃないんだから…。
廃墟アパートをリンチの「赤いカーテンの部屋」のように
仕立てたかったのではと勘ぐるが、
これまた中途半端にポップで清潔な美術にセンスが感じられず、
美意識を疑いたくなる。
終盤のホラーのような展開が、作品的な野心を削いでいるのも残念で、
デ・パーマ(←今野先生風)の失敗作『ブラック・ダリア』を想起。
現実事件のフィクション化は、まとめが難しい……。

と散々けなしたが、テーマの選択と果敢なチャレンジには拍手。

拍手[0回]

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原題:I Am Divine
製作年:2013年
製作国:アメリカ
監督:ジェフリー・シュワルツ
出演者:ディヴァイン、ジョン・ウォーターズ、タブ・ハンター、
リッキー・レイク、ミンク・ストール



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今年の東京レズビアン&ゲイ映画祭で、
何か観ておくべき作品はあるかなと、ラインナップをチェック。
イスラエルの作品2本、F to Mのポルノ男優/インターセクシャルの人々を追う
ドキュメンタリーなど、結構観てみたい作品が並ぶ。

最もGO GO BOYがどうの(アメリカ映画)とか、
隠れゲイのカミングアウトがどうの(台湾映画)とかもあり、
「いまだにこんな、所詮ゲイ映画をセレクトすんのかよ」という不満を覚えたが、
予定調和が好きな腐マ●コ辺りからも金を巻き上げないといけないから、
まぁしょうがない。
そんななか僕が選んだのは、ディヴァインのドキュメンタリー。
まだ本国でも未公開のようなので、手堅い選択かと思う。

堅実にまとめられたドキュメンタリー

ディヴァインは60年代後半に
ジョン・ウォーターズ監督のトラッシュ・ムービーで名を上げたカルトスターであり、
70~80年代のディスコに君臨した、伝説的なドラァグクイーンでもある。

僕はディヴァインの代表作『ピンク・フラミンゴ』を始め、
『マルティプル・マニアックス』、『ポリエステル』、『フィメール・トラブル』、
そして『ヘアスプレー』などを鑑賞済みである。
また彼のベストCD(カラーコピーのジャケが有名なディスコ系再発レーベル・HOT PRODUCTIONの盤)、
さらにジョン・ウォーターズの著作も所有している。
日本で入手できる彼の情報を、よく収集したクチだと思っていたのだが、
この作品を観て、やはり偏りのあることがわかった。

ディヴァインは真にアンダーグラウンドな存在であったため、
全体を俯瞰してみると、抜け落ちた批評や実績が、数多く存在しているのだ。
本作には、ディヴァインを知るために有益な、以下の情報が含まれている。

母親へのインタビュー
舞台俳優としての活躍
彼のプライベート(ゲイ)ライフの片鱗
レイニー・カザンらと共演したメジャー映画の存在(日本未公開)
死の直前に決まっていたファミリードラマへのキャスティング(男役だった)

ほかにもミンク・ストール
(少なくとも『ピンク・フラミンゴ』では、ディヴァインより演技達者)や、
リッキー・レイクなど、共演者へのインタビューが盛り込まれていて、大変興味深い。
メアリー・ヴィヴィアン・ピアスの容貌が恐ろしく劣化していたのにも、驚かされた。

また晩年に、彼がメジャーへの足がかりを
かなり確かなものにしていたことを確認できたのは、大きな収穫だったと思う。
「願えば夢は叶うのよ」という陳腐な美麗字句も、
ディヴァインのように真に異端な存在の口からこぼれ落ちれば、
立派な金言足り得るのだ。

拍手[3回]

原題:W./E.
製作年:2011年
製作国:イギリス
監督:マドンナ
出演者:アビー・コーニッシュ、アンドレア・ライズブロー、
ジェームズ・ダーシー、オスカー・アイザック



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マドンナの監督2作目。
インディ風の処女作とは180度異なる、ゴージャスな雰囲気。
製作費数十億という前評判は、伊達じゃなかった。

ハンディカメラの粗い映像を挿入する撮影/編集技法も凝っているし、
過去と現在を併走させる語り口がうまく、2時間は全く飽きさせない。
さすが無類の映画好きらしいマドンナの才気が、ほとばしっている感じだ。

しかし作品を貫くテーマは前作同様。
「私、私、私!」という野心の貫徹にあった。
深化のポイントは、達成の先にある、荒涼とした風景の描写の中にあるのかもしれない。

ただあなたに憧れて

本作のヒロインで、実在の人物であるウォリス・シンプソンは、
ボルチモアの父なし子から、時の英国王の伴侶にまで登りつめた女。
その生き様にマドンナがシンパサイズしていることは明らかなのだが、
僕は客席で、やや置いてきぼりにされたような感触に包まれた。
理由は以下の2つだ。

1●なぜそこまで上昇志向が強いの?…
セレブ願望の強い女たちが抱く、
「何がなんでも幸せになりたい、私には幸せになる権利がある」
という、分不相応な飢渇感。これがどうにも理解しづらい。
その幸せとやらが、華やかな社交界、煌びやかな装身具、
湯水のように金を使うライフタイルに収束されるところが浅薄で、
とても共感しにくいのだ。
本作を観ていると「でもあなただって、ホントはそうでしょ?」と、
決めつけられているようで、少し居心地が悪い。

2●あなたの武器はそれだけなの?…
ウォリス・シンプソンが生きた時代は現代と比較にならないほど
女性の地位が低かったのは明らかだが、
果たして彼女の魅力はどこにあったのかといえば、
それは巧みな社交術とか、他人と一線を画す洋服の着こなし程度だったというのが、
何とも物足りない。
さまざまな人間をねじ伏せるために、努力と実績を積み上げてきた
マドンナほどの人間が、なぜウォリスのような女に憧れを抱くのか、
よくわからないのだ。

マドンナは本作で、ウォリス・シンプソンに貼られたレッテルを剥がそうとしている。
彼女なりの視点から、ウォリスの痛みや孤独を浮き彫りにしようと懸命だ。
それは彼女自身が抱える、以下のような痛手と失敗の弁明でもあるのかもしれない。
・ジョンFケネディジュニアとの恋愛ゲームに敗退
・ハリウッドの大御所セレブ、ウォーレン・ベイティとの破局
・不屈のトライにも関わらず、女優として映画界に受け入れられなかった過去


映画の締めくくりに、現代を生きるもう一人の主人公が、
ウォリスに「ある提案」を差し出す、幻想的な場面がある。
それはまるで、女性の過剰な自意識に捧げる
処方箋かのような描かれ方だった。
しかしマドンナ自身は、果たして「それ」を本気で信じているのだろうか?
どうも疑わしい、そう思えてしまう……。

とはいえ、期待以上によい映画だったと、最後に付け加えておこう。


拍手[1回]

製作年:2010年
製作国:日本
監督:佐藤寿保
出演:安井紀江、佐久間麻由、渡辺真紀子、鳥肌実、草野イニ



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『AV女優』というシリーズ本があった。

その存在は世の隅々まで浸透しているのに、
全く発言権の与えられていない女性達の声をかたちにした、
画期的かつニッチな一般向け読み物であり、
僕は非常に興味深く愛読していた。

まとめているのは永沢光雄というライター。
流れ流れて、エロ業界にたどり着いたという諦念が、
文章の端々から伝わってくるタイプの物書きだった。

くぐり抜けてきた修羅場で培ったのであろう、
慈愛に満ちた眼差しで女優たちを見つめ、
時に父親のように困惑の体で、過激な発言の数々を纏めていく。
人によっては古臭さや偽善を感じかねない文体だが、
それでもプロとして、「一本筋を通したスタイル」を感じさせてくれたので、
僕は好感を抱いていた。

このシリーズは確か、パート2までで終了してしまった。
永沢光雄が亡くなったためである。
もっと続きが読みたかった、と思っていたので、
書店で『名前のない女たち』を見つけたときは、驚いた。
ライターは別人だが、、明らかに『AV女優』シリーズの後釜を狙う雰囲気が
漂っていたからだ。違っていたのははじめから、
企画女優へのインタビュー」というコンセプトを持っている点である。

企画女優とは、高額のギャラを稼ぐ「単体売り可能な」人気女優ではなく、
その他大勢のひとりとして脇役や、
過激なコンセプトの「企画もの」に挑む、B級AV女優のこと。
業界に従事する女性達の本音を、
さらに突っ込んだかたちで掘り起こせそうな企画ではある。
果たしてその内容は、こちらの予想を、さまざまな意味で裏切ってきた。


AV女優の肉声を収集した、ふたりの男


『名前のない女たち』の著者は、中村敦彦というライター。
永沢光雄の確立したスタイルからは、かけ離れた文章を書く人だった。
何よりも視点の、底意地が悪い

AV女優へのインタビューをまとめる人間、そして読む人間は、
そこに何を期待するのだろうのか。
恐らく、以下の二点に集約されるのではないかと思う。
 「なぜAV女優になったのか?」
 「そこで何を得て、何を失ったのか」

AV女優たちから返ってくる言葉は、
信じられないほど凄惨な体験の記憶だったり、
呆れるほど何も考えてこなかった女の放言であったりと、さまざまなのだが、
共通しているのは彼女たちの置かれている立場。
自覚があるにせよ、ないにせよ、
不特定多数の目に向け、自らの性器を曝すという作業には、
それなりのリスクが伴っている。

永沢光雄も中村敦彦も、基本的にはこの2つの質問を軸に、
AV女優との交流を図っていくのだが、
受け止め方、吐き出し方は明らかに異なっている。

永沢光雄はAV女優に対し、畏敬と憐憫の入り混じった複雑な思いを抱きつつも、
ネガティヴな私情を封じ込める自制心を、常に働かせていた。
女たちのふてぶてしく反抗的な態度を、
なぜか自らの落ち度として背負い込もうとする時さえあったのだ。
彼なりの心意気を以って、
「AV女優たちの本音」という最後の砦を守り抜こうとしたのである。
性の商品化という荒涼とした素材に対し、
身を挺してフィルターの役割を果たすことで、
読む者を脅かさない、どこかフィクショナルな世界を作り上げたのだ。
このスタンスがあったからこそ、読者はAV女優たちの言葉に、
素直に耳を傾けられたのである。

対して中村敦彦は シニシズムに満ちた視点でAV女優を眺め、
疑念をストレートに投げつけ、暴いた欺瞞を克明に記そうと試みる。
その透徹な態度は時に女たちを激怒させ、取材そのものを破綻させてしまうのだが、
その様子さえ、ドキュメンタリータッチで容赦なく記録し、発表していく。
2人の物書きの態度には、演歌とパンクぐらいに大きな隔たりがあった。

僕ははじめ、中村敦彦のスタンスに不快感を憶えていた。
常軌を逸している、と感じたのだ。
しかし彼が人選し、インタビューを試みたAV女優たちは、
現代の百鬼夜行と呼んで差し支えないほど、
おどろおどろしい運命を背負う女たちばかりだった。
その悲惨な過去や、体験をさらに読み進みたくなる好奇心に抗うことは難しく、
いつしか僕は『名前のない女たち』の虜になっていた。

女が裸にさえなれば喜ばれ、金になる時代はとうに過ぎ去っている。
過激化の一途を辿る飽食のポルノ産業に、
中村敦彦のスタンスはよく適応していたと思う。
彼が永沢光雄を意識していたのかどうか、定かではないが、
180度異なるスタイルを貫かなければ、『AV女優』シリーズを超えることは、
決してできなかっただろう。
かように優れた2人の物書きを引き寄せるAV業界とは、
現代の「文学の現場」といっていい。
例え携わる人間ひとりひとりに、その自覚はないとしても……。


切り拓かれた新境地は、無に帰した


上記のように偏愛した『名前のない女たち』が映画化されると知って、
ぜひ鑑賞したいと思っていた。ようやく観ることができたのだが、
残念ながら、その出来には落胆してしまった。
『名前のない女たち』に収録されたインタビューは上手に脚本へ取り入れられていたし、
主演女優のふたりもよく頑張ったと思えるのに、なぜだろう。
それは中村敦彦の貫いた、孤立無援の厳しさがが伝わってこなかったからである。

監督の佐藤寿保はピンク映画を主戦場として活躍してきた人物で
(観たことないが、ゲイものも撮っているらしい)、
そのアーティスティックなスタイルはピンク映画の範疇を超え、評価を受けているという。
しかし本作からは、ジャンルの壁を超え普遍的な感慨をもたらす、
鬼才の手腕というべきものが、感じられなかった。

一般映画としてAVの世界を描くチャンスに、
なぜこのような手緩い解答しか導き出せなかったのだろう。
保守的な配給会社に敬遠されることを恐れたから?
それではあまりに、観衆を見くびりすぎている
大衆は皆何食わぬ顔で、ハードコアポルノの世界に、日常的に触れている。
その裏側を堂々と、広く知らしめる機会に、自らの表現力を最大限発揮しなくて、
いつ発揮するのだろう。

本作で最も印象に残ったのは、反目し合うふたりのAV女優が打ち解けあい、
裸でじゃれ合うシーンだった。
過酷な現実をくぐり抜けてきた女性2人が、一瞬垣間見た、美しい桃源郷。
世に「淫売」「変態」と罵られ、蔑まれる女たちに通う真心のようなものが伝わってくる。
しかし敢えてそこに踏みとどまろうとするのは、永沢光雄の美学だ。
中村敦彦はその「美しき誤解」に挑み、新境地を開拓した物書きなのである。
これでは彼が、あまりに浮かばれないと思った。

本作の主人公、ルルのモデルになっている木下いつきというAV女優は、
アニメ好きでもないのに、AV女優として大成するため「オタク女」を装い、
それなりの成功を収めた上で逆さ吊りにされ、
体中の穴という穴にザーメンを流し込まれ、
無抵抗の状態で顔面を腫れ上がるまで殴打され、
その一部始終を記録され、販売された。
しかし映画には、その地獄が一切描かれない。

事実は小説より奇なり? それではあまりに、寂しすぎる。
映画の持つ可能性を見くびりすぎている。
何が彼女の人生をそこまで追い込んだのか? 
その背景にあるのは個人的な運命なのか、それとも社会全体が抱える問題なのか?
この陰鬱な問いかけをリアルに受け止めるには、
やはり原作を読むしかない


追記:『名前のない女たち』は現在、パート4までは文庫化され、
書店で入手可能である。ハードな内容なので、精神的に落ち気味の場合は、
手を出さないことをおススメするが、たまに心底笑えるインタビューもあり。
僕はパート2に収録された「淫乱女/水野礼子」の稿が大好きで、
たまに読み返しては大笑いしている。

ポチッとお願いいたします★

拍手[2回]

原題:KABOOM
製作年:2010年
製作国:アメリカ/フランス
監督:グレッグ・アラキ
出演:トーマス・デッカー、ヘイリー・ベネット、ジュノー・テンプル、
クリス・ジルカ、ジェームズ・デュヴァル


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レズビアン&ゲイ映画祭で上映されていたので、観に行ってきた。

自分もゲイなのにナンだが、20周年を迎えた上記の映画祭や、
他のゲイ系のフィルムフェスティヴァルでかかっている映画には、
あまり興味がない。
平たく言うと、身内ウケの「所詮ゲイ映画」ばかりだからだ。

1990年代ならともかく、もうゲイなんていて当たり前、
受け入れられて当然のはずである。
特に映画は、現実の数歩先を行っていなくてはならないのだから、
新しい視点や問題提起のないゲイ映画なんて、観ていても始まらない。
そんなものに1時間半割くなら、他に観たい映画がいっぱいあるのだ。

レズビアン&ゲイ映画祭の今後は? ま、変わらないんだろう。
時代の先端を切り拓くような存在意義はとっくに失っているけど、
ゲイ文化のひとつとして、ローカルな映画祭がひとつふたつある分には、
別に構わないと思う。
アホらしくて、観には行かないけどね。


日本公開はもうないかも


グレッグ・アラキは、ニュー・クイア・シネマの旗手として、
90年代前半に大きな注目を浴びた監督だ。
日本でも初期の何作品かはソフト化されており、今も鑑賞することができるが、
『ノーウェア』(1997年)以降の作品は、劇場公開もソフト化もされていない。
2004年公開の『ミステリアス・スキン』なんか、かなり観たいのだが、
現状ではなす術がないのだ。
その『ミステリアス~』について少し前に調べたところ、
2005年のレズビアン&ゲイ映画祭で上映されたとのことで、
「しまった!」と大いに悔やんだ。
この『カブーン!』も恐らく今後、日本公開、ソフト化はされないのだろうから
「今回は見逃すまい」と、鼻息を荒くして出かけたのである。

こうしたニッチな監督の作品を上映できるのなら、
レズビアン&ゲイ映画祭にも、大いに意味がある。
監督自体がゲイで、作品にゲイ要素もたっぷり込められていて、
なおかつ映画としても面白いなら、こちらとしては積極的に観に行こうと考える。
他に日本公開の機会がなさそうなのであれば、
これはもう、プレミアムな価値があるではないか!
諸事情があってむずかしいのだとは思うが、身内ウケではなく、
本当に映画好きな人に「おっ」と思わせる映画祭になってくれたら、
こちらもどんどん身銭を切って、観に行くんだが。


ゲイと女が繰り広げる、自然体のセックス


さて前置きが長くなったが、本作は非常に面白いオルタナエンタメ映画である。
正直、期待以上だった。
デビューから20年以上経つのに、監督の感性が全然古びて見えないなんて、
これは果たしていいことなのか、悪いことなのかと、思わず考えてしまったほどだ。

セックス、カルト、殺人、超常現象、そしてシニシズム……といった、
血気盛んな若者を喜ばせる要素が、てんこ盛りとなっており、
若者気質な台詞は「ファック」や「ファッキン」の嵐。
メジャー映画とくらべても全く見劣りせず、
編集もスピーディ、画面作りも洗練されていて、
貧乏くさいところは特に見当たらない。
おまけにサスペンスフルなコメディなので、理屈抜きに楽しめる。

本作の主人公はゲイなのだが、面白いことに、そのゲイ友は一切登場してこない。
代わりに、魅力的な女の悪友が登場してくる。
サバサバとした自然体のビッチで、いかにもゲイ受けしそうな女たち。
さらに混沌としていることに、主人公はその女ともヤリまくるのである。

ここがミソなのだが、主人公はセックスする女性に対して、
自分がゲイであることを偽っていない。
つまりジェンダーに捕らわれない関係の先にある、
セクシュアルなファンタシーを描いてみせているのだ。
いざ自分が女とやれるかどうかは別として、何とも自由な感性だな、とは思う。
少なくとも、いまさら「僕はゲイなんだ、女とはやれないんだ」とか
のたまっている映画より、ずっと新しくて清々しい。
それに、ゲイが女とやれるということは、
ノンケ男が、男とヤレる可能性だってあるわけで、
本作には実際、そんなシーンも登場してくる。
自分がセクシーだと感じれば、相手が男でも女でも、構わないというわけなのである。

しかしこんなにぶっ飛んでいて面白い映画が、
日本で公開されそうもないなんて、つくづくもったいない話である。
世界の中心でどうのとか、余命何年がどうのとかいう映画を
喜んで観ている日本の若者には、やっぱりついてこれない世界なのだろうか。
ホントに保守的で、気持ち悪い限りだ。

それにしてもフランスってのは、やっぱ偉い国だなと思ってしまった。
中国圏の映画だけでなく、アメリカの異才にもちゃんと資金提供する人がいるんだから。
ちなみにオリジナルスコアは、ロビン・ガスリーが担当しております。


ポチッとお願いいたします★

拍手[2回]

material:ふわふわ。り  template:ゆずろぐ

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