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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。    同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
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原題:大三元
製作年:1996年
製作国:香港
監督:ツイ・ハーク
出演:レスリー・チャン、アニタ・ユン、ラウ・チェンワン


_____________________________________________

レスリー・チャンは非常に魅力的な俳優であった。
ゲイだったこともあり、僕にとっても非常に思い入れのある”哥哥(兄貴)”なのだが、
この世を去ってもう8年になるので、当然新作を観ることはできない。

そこで娯楽作として長らく後回しにしてきた本作を、
ようやく鑑賞したのだが、なんだかもう、唖然としてしまった。
香港エンターテインメントのクールさ、
ハードボイルドさが全開の作品だったのだ。


チンケな我執は全部捨てろ


本作の監督であるツイ・ハークは、香港エンタメ映画界の大成功者で、
そのフィルモグラフィは、アクションものやら
ノワール(ギャング)もので埋め尽くされている。
正直触手が動かないタイプであり、代表作は一切観ていないのだが、
たまに本作のような、コメディを撮っているようだ。
その演出たるや、恐ろしく過剰!
「何もそこまで……」と鼻白みかけるが、
最初から終わりまで、ビシッと一本筋を通してくるので、納得しないわけにはいかない。
すなわち、「作品に必要」と判断される以外のナルシシズムを、
俳優から一切剥奪してしまうのだ。

本作では、ヒロインであるアニタ・ユンの奮闘ぶりが、特筆に価する。
過去にもレスリーの相手役として、ボーイッシュな少女を演じてきた彼女だが、
今回の役どころは娼婦。
明らかに大陸出身と思われる厚化粧、
派手なだけでセンスのかけらも感じられないスタイリングを施され、
怒鳴る、走り回る、ひっぱたかれる、口からスナック菓子を吹く、
揚句の果てにエロ写真のモデルを承諾しようとまでする。
ここまできたら、イメージもへったくれもない。

彼女の娼婦仲間には、それなりの美人女優が揃うのだが、
一様にセンスの悪いヘアメイクを施し、
やけくそといわんばかりの怪演を強いる。
ギャングもので人気の俳優、ラウ・チェンワンには、
自分の足の匂いを嗅がせて、ゲロを吐かせる。
美青年という設定のレスリーでさえ、
プレスリーの格好で街中に放り出す。
”どS”と呼んで差し支えないほど、ハードボイルドな演出である。

でもエンターテインメントとは本来、滑稽であって然るべきものなのだ。
役者は自分を投げ出し、
ギリギリまで観客の嗜好に迎合しなければならない。
自分のやりたいことと、観客が求めていることの
バランスを計るのが、難しいのはわかる。
しかしやることをやらないで自己主張ばかりしていても、
始まらないのである。

わかりやすい例として挙げるので、ファンの方には申し訳ないのだが、
日本の福山雅治とか観ていると、
僕は背中がムズムズして、一刻も早く逃げ出したくなる。
ああいう格好の付け方というのは、少なくともエンターテインメントとは呼べない。
裸の王様みたいだし、別の意味で滑稽である。
そう考えると、ちんまいプライドに固執しているタレントに気を遣った、
近年の日本映画なんかアホらしくて、とても観ていられない
(同世代の価値観というテリトリーから抜け出せない、青臭い単館映画もご同様)。


今回は遊びだから、余裕なんです


本作は演出ばかりではなくて、脚本も優れている。
一見ドタバタコメディなのだが、登場人物たちの背景が、
意外にしっかりと設定されているのだ。
身体を売りつくしても借金の減らないアニタ・ユンの境遇なんて、
はっきり言って悲惨の局地。
そんな彼女を食い物にしようと蠢くヤクザたちも、
筋に矛盾や破綻が生じないようにきちんと描かれている。
だから突然暴力的なシーンが出てきて、「あれ?」なんて思ったりするのだが、
またコメディ演出の渦に巻き込まれて、忘れてしまう……。
ここらへんの匙加減にはツイ・ハークの”本業”が活きており、
ただ無責任に映画を作っているのではないことが、伝わってくるのだ。

安易なハッピーエンドに雪崩れ込まないラストも、非常に大人だった。
レスリーみたさで手に取った作品だったが、
香港エンターテインメントの底力に、改めて感じ入った。


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原題:有話好好説
製作年:1997年
製作国:中国
監督:チャン・イーモウ
出演:チアン・ウェン、リー・パオティエン、
リュウ・シンイー、チュイ・イン



____________________________________

挑戦、迎合、本家取り

大陸の映画監督としては最も成功した実績を持つ、
チャン・イーモウ監督の異色作。
この映画の製作当時は、
香港のウォン・カーウァイが世界的な注目を集めていた時期にあたるので、
その作風を多分に意識した映画作りが為されている。
即ち、クリストファー・ドイル並に動き回るカメラワーク。
そして、広大な中華人民共和国の首都である大都会、北京を舞台にした物語。

しかし喜劇的な要素が非常に強いので、
ロマン主義のウォン・カーウァイ作品とは、鑑賞後の印象が決定的に異なる。
あくまで作風を借りてきただけ、というスタンスからは、
監督のプライドが感じられた。


現代的な舞台に冴え渡る、老優の怪演

個人的な感想を述べてしまうと、この作品、かなり好きである。
これはなんといっても、俳優陣の魅力によるところが大きい。

ぶ厚い体のチアン・ウェンはもともと好みのタイプなのだが、
今回の、”思い込んだら一途に突き進む”二枚目半な役柄が
非常によくはまっており、好感を持った。
モデル出身のチュイ・インも、少ない出番ながら鮮烈な印象を残す。

しかしなんといっても素晴らしいのが、リー・パオティエン。
街を歩いていても誰も俳優とは気づかないであろう、
風采の上がらないおっさん風なのだが、
信じられないほど奥行きのある演技力で魅了してくれる。
僕は老醜を曝す俳優や映画が大嫌いなので、
老優(特に男優)に共感することなんてほとんどないのだが、
今回ばかりは彼の怪演場面が見たくて、
繰り返しDVDを再生してしまった。
頑なまでの平和主義者がトラブルに巻き込まれ、キレてしまう。
その滑稽でエキセントリックな二面性を、見事に演じ分けているのだ。
彼は俳優学校で後進の指導にあたってきたほどの名優で、
チャン・イーモウと縁の深いコン・リーの、師匠にもあたるという。
本作ではその神髄を、まざまざと見せつけていると言えるだろう。


思わず懐柔されそうなチャイニーズ・パワー

本作の脚本は、まるで舞台劇なみに会話を重用している。
特に後半はチアン・ウェンとリー・パオティエンの、延々続く議論が軸となり、
たまたま居合わせた人間たちを巻き込んで、
ドタバタの喜劇へと雪崩れ込んでいく
(キーキー喚き散らすチョイ役の女たちが、かなり笑える)。

 ・自分の正しいと思っていることは、絶対に曲げない
 ・自分とは異なる意見を持つ人間を説得して、改心させられると信じている
 ・どうしても状況が好転しない場合、非常手段に打って出ることも厭わない

世代の異なるふたりの男性の、激しすぎるコミュニケーションからは、
上記した中国人の国民性のようなものが感じられ、非常に興味深い。
楽天的で、やいやい交流し合うことを当然とし、自己主張しまくる。
もし日本人がこの役柄を演じたとしたら、
現実から遊離した芝居臭さが漂うだけだろう。
もちろん質の高い作品として仕上げるためには、
同国人のいいところに限りなく共鳴し、
悪いところにとことんうんざりしている、客観的な視点というものが必要不可欠だ。
本作には、そうした監督のシニシズムが現代的に発散されている。
『フェリーニのローマ』観た時のようなエキゾチズムを感じた、
といったら、ちょっとほめすぎだろうか。

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原題:Totally Fucked Up
製作年:1993年
製作国:アメリカ
監督:グレッグ・アラキ
出演:ジェームズ・デュヴァル、ギルバート・ルナ、
ランス・メイ、ロコ・べリック、スーザン・ベイシッド、ジェニー・ジル



_______________________________________________

 ・既存のハリウッド・エンターテインメントにうんざりしていること。
 ・そして既存のゲイ文化にうんざりしていること。

このふたつの皮膚感覚が備わっている者にしか、
本作の真価は伝わらないのかもしれない。

僕は確か、公開当時にミニシアターでこの映画を鑑賞していると思う。
でもガツンとやられた印象は、まるで残っていなかった。
当時の僕は、映画そのものをそれほど観ていたわけではない。
だからどんな映画がインで、どんな映画がアウトか、
選別できるほど明確な自分の意見を、何も持たなかったのである。
低予算で有名な俳優も登場せず、
ハンディカメラで照明もろくに計算しないまま撮影しているような
インディペンデント作品に、映画としてどんな意義があるのか、
全く判らないまま観賞していたのだ。

80年代末~90年代初頭は、既存の価値観に飽き飽きしている者たちの
オルタナティヴな感性が大爆発して、
一気にメジャーへと雪崩れ込み始めた重要な時期にあたる。
そんな中でたまたま、新進気鋭かつゲイである映像作家
(ガス・ヴァン・サント、トッド・ヘインズ、トム・クレイン、
そして本作の監督、グレッグ・アラキなど)の頭数が揃い、
便宜上”ニュー・クイア・シネマ”というムーブメント名称が生まれた。
ゲイやレズビアンといった、既存の価値観では全否定される
セクシュアル・マイノリティを肯定するアティチュード、
そしてその肉声を描く新鮮さは世界的に歓迎され、
ストレートの若者たちにも受け入れられた。
特に90年代以降、ストレートの新進監督がこぞって
ゲイの登場する映画を撮った中華圏には、その影響が如実に現れている。


本作はまた、ゲイの間に生じる世代間の断絶も描いている。
こと音楽面に関して、公開当時の僕は、
間違いなく「こっち寄りのゲイ」だったことを、懐かしく思い出してしまった。
若者たちの部屋に貼られたポスターを飾るジーザス&メリー・チェイン、
フロント242、スミス。台詞の中にも登場するコクトー・ツインズ、キュアー、
ミニストリー。作品中に曲が流れるヒズ・ネイム・イズ・アライヴ、
レッドハウス・ペインターズなどのバンドは僕にとって、
非常に親しみのある存在であり、心の支えでもあった。
しかし当時の新宿二丁目といえば、ユーミン、みゆき、聖子などが人気で、
さらに槙原敬之など、年は若くともやっていることは
非常に保守的なミュージシャンたちが支持されていた。
はじめてゲイクラブに足を踏み入れた頃は、
UKものよりもNYのガラージュ系ハウスが主流で、
「こんなユーロビートみたいな音で踊れるかよ!」と、憤慨したものである。
本作の登場人物たちも、バーブラ・ストラサインドやベッド・ミドラー、
ダイアナ・ロスのような70~80年代のゲイ・アイコンに対して、敵意を剥き出しにする。
ニルヴァーナなどが世界的な人気を博した90年代は、
ロックがカウンター・カルチャーとして機能した、最後の時代だったのだ。

あれから20年近くが経過し、公開当時にはどこか他人事のように思えた、
彼らの性に共感を憶えられるようになった(結構晩熟だったのであるw)。
ダンス・ミュージックの存在意義も身体でわかるようになり、
ひと昔前のアイコンがなぜゲイに支持されていたのか、理解できるようにもなった。
そして何より、映画をたくさん観たことで、
アメリカ映画史における本作のユニークな存在意義を実感し、
愛おしく思えるようになったのである。
これを成長といわずして、何と言おう。
未見のアラキ作品を、これから観なくては!

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原題:Les Nuits Fauves
製作年:1992年
製作国:フランス
監督:シリル・コラール
出演:シリル・コラール、ロマーヌ・ボランジェ、
カルロス・ロペス、コリーヌ・ブルー


_________________________________________

公開当時すごく話題になった作品で、
僕もタイトルだけは記憶していたのだが、
こんなにゲイ要素の強い作品とは、観るまで知らなかった。
監督、主演をこなしているチャーミングなシリル・コラールは、
役柄と同じくHIVキャリアで(後年亡くなっている)、
彼の自伝的な要素も色濃い作品に仕上がっている。
日本でもそれなりにヒットしたはずなのに、DVD化はされていない様子だ。

スピーディなカメラワーク、エキセントリックな登場人物、
そしてストリートの孕む、さまざまな問題を巧みに取り込んだ脚本には
圧倒的な新鮮さがあり、後進へ与えた影響も、少なからずありそう。
まだHIVが、未解明な部分の多い新病だった時代の作品ということもあり、
感染者のとまどいや、感染を広げかねない未熟な行動なども
包み隠さずに描写しようと奮闘する。その実直な姿勢が、潔い。

これが初主演作となるロマーヌ・ボランジェは、
いかにもフランス娘っぽい雰囲気を発散していて、好印象。
あどけないマスクに豊満な肢体のアンバランスさが色っぽく、
なかなか見事なファム・アンファンぶりだった。
一途な情熱と、ストーカーばりの執着をむき出しにする難役だが、
その熱演を女優としてのプラスイメージに作用させるあたり、
さすがフランス映画という感じだ。

だが個人的には、なぜ物語の主軸に女性を紛れ込ませたのか、疑問を持った。
なにもゲイだって、始めっからすれっからしというわけじゃないんだし(笑)、
少年と青年ゲイの間に起こった、”愛”の認識の差を描いたほうが、
より伝わりやすい内容になったのではないか、と思うのだが。

またこの映画には、
「乱れた性生活を送った末エイズになったのに、自暴自棄になってまだ懲りていない」
というモラリストからの退屈な批判も、数多く寄せられている。
しかしゲイの世界にはパートナーシップのひとつのゴールとも言うべき、
結婚制度が浸透していない。
まぁストレートだってすぐ離婚する御時世だし、
長年の関係を良好に育むゲイ・カップルも少なくはないはずだが、
純粋な愛を裏切られた経験があるゲイには、
その後の人生を前向きに生きていくために、
刹那的なライフスタイルを選択せざるを得ない不運がある。
こうした背景を理解せずに、主人公の行動を否定するのは、
ナンセンスだということをわかって欲しいものだ。

終盤で、恋愛関係における追う者と追われる者の立場は逆転するのだが、
それぞれに”個”としての生き方に目覚めていくラストが、大人だった。
主人公が到達したのは、死に直面したものだけが知る諦念の境地であり、
恋愛関係を継続させるための言い訳では、決してない。
彼は今後も彼らしく、人生を全うするのであろうという救いが漂っており、
妥当なまとめ方だなと納得できた。

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原題:愈快楽愈堕落
製作年:1997年
製作国:香港
監督:スタンリー・クアン
出演:チンミー・ヤウ、クー・ユールン、
サニー・チャン、エリック・ツァン



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スタンリー・クアン監督がカミングアウト後に
発表した第一作目の映画で、ゲイ的な要素も色濃い群像劇。
DVD化されておらず、レンタルショップでも見つかりにくい作品なのだが、
中古店で安価に入手することが出来た★

前年にウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』が
公開されていた香港だが、
ゲイ監督の手がけた本作のほうが、
登場人物の相関図は遥かに複雑。
ノンケ(異性愛者)男に恋するあまり、
その妻と関係を持つゲイが登場するのだが、
当事者の目から見ると、行動にかなりの飛躍を感じてしまう。
そんな理由で女とやれるほどロマンチストなゲイは、
この世にいませんて……。

また、ノンケ男の方はゲイに寝込みを襲われ、
どうやら自分のゲイ的要素に目覚めたようなのだが、
こちらには具体的な濡れ場の描写が伴わない。
ストレートの観衆が感情移入しやすいよう、
あくまで男女関係を前面に押し出す配慮が、為されているというわけだ。
スタンリー監督の映画には、いつもこういったよそよそしさや、
器用貧乏さが濃厚に漂っている気もする。
しかし映画にリアリズムばかり求めるのもつまらないので、
個人的には「これもありか」と納得した。

しかし、一箇所だけ強く印象に残った場面がある。
ゲイの登場人物が香港の浜辺に腰掛け
「向こうは大陸。違法移民の上陸地だ。
彼らは悲惨だよ。見つかるのを恐れる生活……」
と言うのだが、なんだかサラッと流せず、気にかかってしまったのだ。

90年代という時代を考えれば、
違法移民が上陸するのは、大陸ではなく、むしろ香港だったはず。
つまり監督は、理由があって大陸へと渡る(帰る)
香港在住ゲイのメタファーとして、
”違法移民”という言葉を選んだのではないか
(もしかしたら、僕のわかっていない別の意味があるのかもしれないが)。
何しろ大陸で同性愛は、2001年まで”治療を要する精神疾患”と
みなされていたのだから、共産主義国家って本当に恐ろしい。
中国人のゲイにとって、香港はきっとパラダイスのように
自由を満喫できる場所であったことだろう。
冒頭のハッテン場のシーンに限っては、結構リアルだったし……。
「あ、日本と全然変わらない」なんて思ってしまった次第(爆)。

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