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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。    同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
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原題:KABOOM
製作年:2010年
製作国:アメリカ/フランス
監督:グレッグ・アラキ
出演:トーマス・デッカー、ヘイリー・ベネット、ジュノー・テンプル、
クリス・ジルカ、ジェームズ・デュヴァル


__________________________________

レズビアン&ゲイ映画祭で上映されていたので、観に行ってきた。

自分もゲイなのにナンだが、20周年を迎えた上記の映画祭や、
他のゲイ系のフィルムフェスティヴァルでかかっている映画には、
あまり興味がない。
平たく言うと、身内ウケの「所詮ゲイ映画」ばかりだからだ。

1990年代ならともかく、もうゲイなんていて当たり前、
受け入れられて当然のはずである。
特に映画は、現実の数歩先を行っていなくてはならないのだから、
新しい視点や問題提起のないゲイ映画なんて、観ていても始まらない。
そんなものに1時間半割くなら、他に観たい映画がいっぱいあるのだ。

レズビアン&ゲイ映画祭の今後は? ま、変わらないんだろう。
時代の先端を切り拓くような存在意義はとっくに失っているけど、
ゲイ文化のひとつとして、ローカルな映画祭がひとつふたつある分には、
別に構わないと思う。
アホらしくて、観には行かないけどね。


日本公開はもうないかも


グレッグ・アラキは、ニュー・クイア・シネマの旗手として、
90年代前半に大きな注目を浴びた監督だ。
日本でも初期の何作品かはソフト化されており、今も鑑賞することができるが、
『ノーウェア』(1997年)以降の作品は、劇場公開もソフト化もされていない。
2004年公開の『ミステリアス・スキン』なんか、かなり観たいのだが、
現状ではなす術がないのだ。
その『ミステリアス~』について少し前に調べたところ、
2005年のレズビアン&ゲイ映画祭で上映されたとのことで、
「しまった!」と大いに悔やんだ。
この『カブーン!』も恐らく今後、日本公開、ソフト化はされないのだろうから
「今回は見逃すまい」と、鼻息を荒くして出かけたのである。

こうしたニッチな監督の作品を上映できるのなら、
レズビアン&ゲイ映画祭にも、大いに意味がある。
監督自体がゲイで、作品にゲイ要素もたっぷり込められていて、
なおかつ映画としても面白いなら、こちらとしては積極的に観に行こうと考える。
他に日本公開の機会がなさそうなのであれば、
これはもう、プレミアムな価値があるではないか!
諸事情があってむずかしいのだとは思うが、身内ウケではなく、
本当に映画好きな人に「おっ」と思わせる映画祭になってくれたら、
こちらもどんどん身銭を切って、観に行くんだが。


ゲイと女が繰り広げる、自然体のセックス


さて前置きが長くなったが、本作は非常に面白いオルタナエンタメ映画である。
正直、期待以上だった。
デビューから20年以上経つのに、監督の感性が全然古びて見えないなんて、
これは果たしていいことなのか、悪いことなのかと、思わず考えてしまったほどだ。

セックス、カルト、殺人、超常現象、そしてシニシズム……といった、
血気盛んな若者を喜ばせる要素が、てんこ盛りとなっており、
若者気質な台詞は「ファック」や「ファッキン」の嵐。
メジャー映画とくらべても全く見劣りせず、
編集もスピーディ、画面作りも洗練されていて、
貧乏くさいところは特に見当たらない。
おまけにサスペンスフルなコメディなので、理屈抜きに楽しめる。

本作の主人公はゲイなのだが、面白いことに、そのゲイ友は一切登場してこない。
代わりに、魅力的な女の悪友が登場してくる。
サバサバとした自然体のビッチで、いかにもゲイ受けしそうな女たち。
さらに混沌としていることに、主人公はその女ともヤリまくるのである。

ここがミソなのだが、主人公はセックスする女性に対して、
自分がゲイであることを偽っていない。
つまりジェンダーに捕らわれない関係の先にある、
セクシュアルなファンタシーを描いてみせているのだ。
いざ自分が女とやれるかどうかは別として、何とも自由な感性だな、とは思う。
少なくとも、いまさら「僕はゲイなんだ、女とはやれないんだ」とか
のたまっている映画より、ずっと新しくて清々しい。
それに、ゲイが女とやれるということは、
ノンケ男が、男とヤレる可能性だってあるわけで、
本作には実際、そんなシーンも登場してくる。
自分がセクシーだと感じれば、相手が男でも女でも、構わないというわけなのである。

しかしこんなにぶっ飛んでいて面白い映画が、
日本で公開されそうもないなんて、つくづくもったいない話である。
世界の中心でどうのとか、余命何年がどうのとかいう映画を
喜んで観ている日本の若者には、やっぱりついてこれない世界なのだろうか。
ホントに保守的で、気持ち悪い限りだ。

それにしてもフランスってのは、やっぱ偉い国だなと思ってしまった。
中国圏の映画だけでなく、アメリカの異才にもちゃんと資金提供する人がいるんだから。
ちなみにオリジナルスコアは、ロビン・ガスリーが担当しております。


ポチッとお願いいたします★

拍手[2回]

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原題:大三元
製作年:1996年
製作国:香港
監督:ツイ・ハーク
出演:レスリー・チャン、アニタ・ユン、ラウ・チェンワン


_____________________________________________

レスリー・チャンは非常に魅力的な俳優であった。
ゲイだったこともあり、僕にとっても非常に思い入れのある”哥哥(兄貴)”なのだが、
この世を去ってもう8年になるので、当然新作を観ることはできない。

そこで娯楽作として長らく後回しにしてきた本作を、
ようやく鑑賞したのだが、なんだかもう、唖然としてしまった。
香港エンターテインメントのクールさ、
ハードボイルドさが全開の作品だったのだ。


チンケな我執は全部捨てろ


本作の監督であるツイ・ハークは、香港エンタメ映画界の大成功者で、
そのフィルモグラフィは、アクションものやら
ノワール(ギャング)もので埋め尽くされている。
正直触手が動かないタイプであり、代表作は一切観ていないのだが、
たまに本作のような、コメディを撮っているようだ。
その演出たるや、恐ろしく過剰!
「何もそこまで……」と鼻白みかけるが、
最初から終わりまで、ビシッと一本筋を通してくるので、納得しないわけにはいかない。
すなわち、「作品に必要」と判断される以外のナルシシズムを、
俳優から一切剥奪してしまうのだ。

本作では、ヒロインであるアニタ・ユンの奮闘ぶりが、特筆に価する。
過去にもレスリーの相手役として、ボーイッシュな少女を演じてきた彼女だが、
今回の役どころは娼婦。
明らかに大陸出身と思われる厚化粧、
派手なだけでセンスのかけらも感じられないスタイリングを施され、
怒鳴る、走り回る、ひっぱたかれる、口からスナック菓子を吹く、
揚句の果てにエロ写真のモデルを承諾しようとまでする。
ここまできたら、イメージもへったくれもない。

彼女の娼婦仲間には、それなりの美人女優が揃うのだが、
一様にセンスの悪いヘアメイクを施し、
やけくそといわんばかりの怪演を強いる。
ギャングもので人気の俳優、ラウ・チェンワンには、
自分の足の匂いを嗅がせて、ゲロを吐かせる。
美青年という設定のレスリーでさえ、
プレスリーの格好で街中に放り出す。
”どS”と呼んで差し支えないほど、ハードボイルドな演出である。

でもエンターテインメントとは本来、滑稽であって然るべきものなのだ。
役者は自分を投げ出し、
ギリギリまで観客の嗜好に迎合しなければならない。
自分のやりたいことと、観客が求めていることの
バランスを計るのが、難しいのはわかる。
しかしやることをやらないで自己主張ばかりしていても、
始まらないのである。

わかりやすい例として挙げるので、ファンの方には申し訳ないのだが、
日本の福山雅治とか観ていると、
僕は背中がムズムズして、一刻も早く逃げ出したくなる。
ああいう格好の付け方というのは、少なくともエンターテインメントとは呼べない。
裸の王様みたいだし、別の意味で滑稽である。
そう考えると、ちんまいプライドに固執しているタレントに気を遣った、
近年の日本映画なんかアホらしくて、とても観ていられない
(同世代の価値観というテリトリーから抜け出せない、青臭い単館映画もご同様)。


今回は遊びだから、余裕なんです


本作は演出ばかりではなくて、脚本も優れている。
一見ドタバタコメディなのだが、登場人物たちの背景が、
意外にしっかりと設定されているのだ。
身体を売りつくしても借金の減らないアニタ・ユンの境遇なんて、
はっきり言って悲惨の局地。
そんな彼女を食い物にしようと蠢くヤクザたちも、
筋に矛盾や破綻が生じないようにきちんと描かれている。
だから突然暴力的なシーンが出てきて、「あれ?」なんて思ったりするのだが、
またコメディ演出の渦に巻き込まれて、忘れてしまう……。
ここらへんの匙加減にはツイ・ハークの”本業”が活きており、
ただ無責任に映画を作っているのではないことが、伝わってくるのだ。

安易なハッピーエンドに雪崩れ込まないラストも、非常に大人だった。
レスリーみたさで手に取った作品だったが、
香港エンターテインメントの底力に、改めて感じ入った。


ポチッとお願いいたします★

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製作年:1958年
製作国:日本
監督:小津安二郎
出演:佐分利信、田中絹代、山本富士子、浪花千栄子、
久我美子、有馬稲子、笠智衆



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個人的な話だが、今年は自分の中で”邦画元年”になった。
特に面白く感じるのは1940~50年代の映画で、いま片っ端から観ている。
ひと言でいえば、一定の品格が漂う、普遍性を獲得した作風がいい。

特に大映の映画はよく観ている。
同時代の女優の中でも抜きん出た魅力を持つ、
京マチ子、若尾文子を専属として抱えていたからだ。
しかしいつの頃からか、脇を固める老け役のひとりが気になりはじめた。


どぶ池に咲く浪花の徒花


その女優の名は、浪花千栄子。
関西弁しか喋れない、いや喋らない。



しかし彼女の操る言葉の中には、
独特の直截な響きがある。そして慇懃な含みがある。
いつだって性を超越した平野に屹立しながら、
観る者の想像力を掻き立てずにおかない。
その背景に、ひと言では語り尽くせぬ上方の伝統を垣間見る思いがして、
こちらは身悶えするのである。

黒澤明や溝口健二など、巨匠と呼ばれる監督は一度ならず、
彼女を作品にキャスティングしている。
本作の監督である小津安二郎にしても、海外での評価は非常に高いが、
こと浪花千栄子の魅力に関して、
外国人には逆立ちしてもわからないところがあるだろう。

標準語とは異なる響きを持つ関西弁の妙味、
さらに色街だった島之内(現在のミナミ)独特の言い回しを、
巧妙に操る彼女の真価が測れる幸せは、日本人だけに与えられた特権なのである。


振り回すだけ振り回す


本作の舞台は東京だが、浪花千栄子は京都から上京する、
旅館のおかみ役を演じている。
小津監督はこちらの想像以上に彼女の出番を設けてくれたので、大いに楽しめた。
『お茶漬けの味』とは正反対の役柄に挑む佐分利信は、
主役でありながら物語のトーンを陰鬱にする損な役回りだが、
そこに救いの笑いをもたらすのが、千栄子なのである。
コメディ部分を一身に引き受ける大活躍ぶりだった。

田中絹代との演技合戦もみどころのひとつ。
小津監督独特の三度撮り
(↑命名したのは僕なので、意味がわからないと思うが、
2人の人物が登場する1つのシーンを、全体で1回、各自のバストアップで1回づつ
撮影して、編集していると思われる)が、妙な緊迫感をもたらしていて、笑える。

東西の女が、会話のテンションを落とさぬよう、手綱を引き合うのだが、
東の女が「場のイニチアシヴを握らねば」と身構えるのに対し、
西の女はさほど考えず、天衣無縫に振舞っている。
しかしあまりに灰汁が強すぎて、つい相手を振り回してしまうのである。
そんな東と西、自意識と無意識の戦いを戯画的に表現した、
小津監督の客観的な視点が素晴らしかった。


千栄子がもっと観たい!


気付いたら今年に入って、浪花千栄子の出演作だけでも10本近く観ていた。
鑑賞前に調べたキャストの一覧に、その名が記載されていないことも多く、
いざ観始めたら千栄子が出てきて、キャッと言った事も度々である。

いまのところその活躍ぶりが目ざましく、
なおかつ役柄に好感が持てた(?)のは本作、
そして『瀧の白糸』と『夜の素顔』だろうか。
『夜の素顔』の方は名画座で鑑賞したので、
アマゾネスみたいな京マチ子との対決シーンを、ド迫力で楽しんだ。
次点は『祇園囃子』『女系家族』『丼池』あたりか……。

もっともっと彼女を観たいのだが、
先述のような理由で出演作が調べにくいうえに、出演量も膨大である。
コツコツと観て、アーカイヴでも作っていくしかない。

まず、自伝の『水のように』を入手しなければ……!


ごきげんさん。ま、ポチッと

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原題:BATON ROUGE
製作年:1988年
製作国:スペイン
監督:ラファエル・モレオン
出演:ビクトリア・アブリル、カルメン・マウラ、アントニオ・バンデラス、
ノエル・モリーナ、ラファエル・ディアス


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Yahoo!映画とか、映画.comとか、ONTVとか、
ネット上で自分の観た映画をデータベース化できるサイトは、結構ある。
便利なのでよく利用しているのだが、たまに登録されていない作品があったりすると、
がっかりするというか、鼻白んでしまう。
しかし上記3サイトのどこでも引っかからない作品というのは、これが初めてだった。
すごくよくできたサスペンスなのに、なんでだろう。
日本でも一応、ビデオ化されているのに……。


late 80'sのスパニッシュ・ロマンス、ビクトリア&アントニオ


本作に主演しているビクトリア・アブリルとアントニオ・バンデラスは
80年代後半~90年代のスペインを代表するスター。
本作のほかにも、『凶弾』、『ボルテージ』、『アタメ!』の
計4作品で共演を果たしており、
同世代のベスト・カップルとでも呼びたくなるような存在感を振り撒いてきた。

『アタメ!』でアルモドヴァル監督の強烈な個性の下、
伸び伸びと演技する二人の姿は最高。
『凶弾』はバンデラスに比重の置かれたアンチヒーロー映画で、
アブリルは添え物的な扱いに甘んじている。
『ボルテージ』は、フランコ政権下に花開いた悲恋関係を描く硬派な作品で、
監督は『アマンテス』『危険な欲望』でもアブリルと組んだ、
ビセンテ・アランダである。

ベストを選ぶとするならば、やはり『アタメ!』、
という意見は変わりようもないのだが、
本作もよく練られた脚本が素晴らしい、上級のサスペンスであった。
大金を中心にめぐらされる男女の策謀が交錯し、
一転、二転、三転していく展開は、スリリングのひとこと。
プロット重視の脚本には、大抵どこか”穴”があるものだが、
本作からは矛盾らしい矛盾が感じられなかった。

前半には、怒涛のラストに向けた伏線が多数散見されたが、
中でも印象に残ったのは、
バンデラスがアブリルに向かって訝しげに放つ、
「お前、本当に男が好きか(レズビアンなんじゃないのか)?」という台詞。
たった一行のセンテンスが、これほど多くのものを表現するというのも、
ちょっとした驚きで、言葉や脚本の持つ力というものを、再認識させてくれた。
この見事な脚本は、監督自身と、アウグスティン・ディアス・ヤネス
(『ウェルカム・ヘブン!』の監督)の手によるものである。


日本版ならではの”ウリ”が


また本作には、もう一人のスター、カルメン・マウラが登場している。
彼女もアルモドヴァル作品で知名度を上げた女優だが、
大して美しくもない容姿をフル稼働させて体当たりしてくるような、
エネルギッシュな実存がいかにもスペイン、という感じ。
本作でも老いらくの恋に燃える中年女の姿を、存在感たっぷりに演じている。
この3人の競演というだけでも、スペイン映画ファンは必見の作品なのだ。

邦題は何だかなぁ、という感じだが、これもスペイン映画を捌こうとする側の、
使い古された常套手段なので、いまさら物申す気力もない。
腐女子やゲイへのアピールポイントとして、
数秒間、バンデラスのフルヌードが拝めるシーンがあることを書き加えておく。
ボカシなし、フトマラだった。

ポチッとお願いいたします★

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製作年:2008年
製作国:日本
監督:河瀬直美
出演:長谷川京子、グレゴワール・コラン、
キッティポット・マンカン、村上淳



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カンヌ映画祭の常連となっている河瀬監督の作品。
まずは『殉の森』から観ようかなと思っていたんだけど、
ドキュメンタリー・タッチで俳優は無名か素人を起用、
しかも老人問題を扱っている作品のようだったので、
う~ん地味、とやや気を重くする。
そこで、売れっ子タレントを起用した本作を観てみようと考えた。
といっても長谷川京子って誰だか、よく知らないんだけど(笑)。


裏『それでも恋するバルセロナ』


しかし鑑賞していくうち、非常にイライラしてきた。
まず長谷川京子に、役者としての魅力がない。
そして気の毒なことに、”よくいる日本のバカ女”という役柄なのだ。

英語もろくに喋れないくせに、単身外国へ乗り込む。
チャラチャラと着飾り、露出過多。
あげ句被害妄想にとらわれ、現地で騒動を巻き起こすというのだから、
目も当てられない。

程度の差こそあれ、90年代には金満ジャパンの観光客が、
世界中のあちこちで恥を曝し、失笑を買ってきた。
豊かな社会制度と協調を強いる教育に慣れきっているため、
自分自身の力で状況を打開できない。
そうした気概はすでに骨抜きにされているため、
いい意味での図々しさやしたたかさにも、欠けている。
そんな生態が、海外ではひと際異様に映るのだ。
また消費社会にどっぷりと、喉まで浸かっているため、
教養や思想を磨こうという知的好奇心が、決定的に欠落している。

そんな人間が無防備になったとき、何をするのか。
ウジウジと困ってみせたり、泣いたりして、
ありのままの自分を受け入れてもらいたがるのである。
本当にプライドのかけらも感じられない、ぶざまな姿だ。
僕なども海外では、なるべくそうした行動を取らないようにと、
肝に銘じていたものである。
本作はそんな僕の近親憎悪を、忘れたかけた頃に強く刺激してきた。
ある意味典型的といえる日本人女性の行動を、
ユーモアを排除したドキュメンタリータッチで描いているため、
その愚行は際立って見えるのである。


批判の精神は日本で、いつになったら商業的に受け入れられるのか


作家性の強い監督が作る映画らしく、本作には物語然としたところが少ない。
主人公が何らかの覚醒を得て変化するというシーンを、
わかりやすく表現する必要は全然ないが、
見終わって長谷川京子演じる主人公の成長が、
明確に伝わってくるかというと、そうでもなかった。

でも別に、どうでもいい。
泣き喚いてさえいれば誰かが何とかしてくれる。
そんな風に考えている、精神的に幼い日本人が多少変化したからといって、
それが一体、何だというのだろう?
もともとのレベルが低いのだから、十人並み程度になっただけだ。

鑑賞後、僕の裡に沸き起こった、こんなシニシズムこそ、
河瀬監督の意図したものなのかもしれない。
海外へ赴く日本人の、ありのままの姿を映し描くことによって、
観衆にフィードバックを促しているのではないだろうか。

個人的には、この映画を観た日本人女性のひとりでも多くが、
思想を持つことの重要さに気付いてくれることを、願ってしまった
(もちろん、そんなことはとっくにわかっている、成熟した女性も
数多いとは思うが)。
うわべだけを整え続けていても、結局は同じ悩みにぶち当たるだけ。
そのたびに外国へ”癒し”を求めても、
現地人は金だけをありがたがって、腹の中で舌を出しているはずだ。
また女性だけでなく、日本人男性が現地に残した爪あとを、
しっかりと描いているのも、見落とせないポイントだった。

もちろんこんな意地悪な感想ばかりでなく、
本作から希望に満ちたメッセージを人も、中にいるだろう……、
でもそんな人、本当にいるのだろうか? 
映画の宣伝口上は「古式マッサージに触れ、癒されながら新しい自分に出会う」
といった、バカOLの好みそうなものだったが、
これが監督と配給会社の口裏合わせによる共謀なのか、
それとも監督が女優も含め、どうにかいいくるめたのか。
いずれにせよ、監督の透徹な視線が斜めに乱反射した印象で、
観ていて圧倒されるような力強さを、一向に感じられないのが残念だった。


ポチッとお願いいたします★

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