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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。    同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
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原題:El Pasado
製作年:2007年
製作国:アルゼンチン/ブラジル
監督:ヘクトール・バベンゴ
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、アナリア・コウセイロ、
アナ・セレンターノ



___________________________________

メロドラマ、されど...

久々に観た南米映画なのだが、すごく洗練されていて、
鑑賞している間中、雰囲気に酔いまくってしまった。
ブエノスアイレスのカラフルでありながら、
どこかセピアがかった妖しい色彩が上手に表現されていて、
特に夜の場面の照明の美しさは、強く印象に残る。

12年間連れ添った夫婦が離婚後に繰り広げる、
ドロドロの愛憎劇を描く映画なのだが、
メロドラマぽく見えてはこない。
何か悪いことが起きそうなサスペンスの緊迫感は、
終始つきまとうのだが...。
登場人物の誰かを悪者に据えることでクライマックスを目指すより、
それぞれの心理の変遷をじっくりと追うことに主眼を置いた作品だからだろうか。


男と女の後朝

女は納得ずくで離婚したにもかかわらず、
未練タラタラ男にすがりつき、ストーカー行為を繰り返す。
そして時に、意味深長な言葉を垂れ流していく。
 「逃げることと新しい人生を探すことを混同しないで」
男はこの言葉を否定しきれず、いつしか精神のバランスを崩してしまう。

「女を踏み台にして成長していきたい」と願うのが男のエゴなら、
「自分を捨てた男を取り戻したい」と願うのは、女のエゴ。
ひとつの作品内で、そのどちらも実現させようとバランスを図る試みが野心的で、
映画全体に品格のようなものを投げかけていた。


ガエル、リスペクト!

ヘクトール・バベンゴは『蜘蛛女のキス』が有名なベテラン監督だが、
本作の日本公開が実現したのは、
ガエル・ガルシア・ベルナルの主演によるところが大きいだろう。
ハリウッド進出も果たしており、国際的に知名度の高い俳優だが、
大作系への出演においても脚本選びが慎重で、
ラテン系代表のような役柄を演じていることが多い。
例えばスペインのバンデラスのように、ハリウッドに拠点を移して、
アホ映画でもなんでも断らないタイプとは、根本が違うようだ。

首の短い豆タンク型で、母性本能をくすぐる美青年なのだが、芯はしっかりしている。
監督業に進出したり、
同郷のディエゴ・ルナと製作業に乗り出したり、と精力的な活動を見せており、
あくまで故郷・南米映画の活性化に身を捧げる基本姿勢を崩さない。
尊敬に値する俳優だと思う。
とはいえ本作のように、俳優業に徹して巨匠と仕事をすることもある。
スペインでアルモドバルの作品に出演したこともあった。
ひとつひとつの動きに意味を持たせているところが、非常に聡明なのである。
未見の作品はチェックしなきゃだし、今後の作品も楽しみ!


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原題:人民公厠
製作年:2002年
製作国:香港/韓国
監督:フルーツ・チャン
出演:阿部力、サム・リー、チョ・インソン、
チャン・ヒョク、マ・チェ



___________________________________

2000年代前半に最も注目された香港の監督のひとりである、フルーツ・チャンの作品。
出世作『メイド・イン・ホンコン』では、
素人だったサム・リーを一躍スターダムへと押し上げた功績のある監督だが、
本作では日本や韓国の若手イケメン俳優を多数起用し、
風変わりな青春ロード・ムービーに仕立てている。

糞尿、されど……

排泄という行為は生物の日常であるにも関わらず、
映画の中ではセックス以上に描かれることが少ない。
タブーというよりはまさしく、「臭いものに蓋をしている」感がある。
僕の観た映画の中では、ペドロ・アルモドバル監督だけが
敢えてこの”周知の無関心”にコンシャスであろうとしており、
脱糞シーンをギャグのハイライトとして用いたり、
進行の中に非常に自然な排尿シーンを挿入したりしていたのが印象的で、
好感を持っていた。

以前小澤征爾のエッセイを読んだことがあるのだが、
その中で彼が中国に留学した際、人々が敷居のない公衆便所で
車座になって排便している光景に驚き戸惑った、というくだりがあった。
いくら”郷に入っては郷に従え”というセオリーがあったとしても、
僕にはそんな排便、絶対無理である。
しかしそうした公衆便所が、2000年代にも中国ではまだ健在であったことを、
この映画は示していた。
「信じられない」「野蛮」と糾弾するのは簡単なのだが、
元を正せば人間全員がすることである。
「何が恥ずかしいのか」という思想がその背景にあるような気がして、
中国人の器がデカさが、妙に眩しく感じられてしまう。

また僕は大学生のとき、インドを旅したことがある。
長距離を電車で移動することもあったのだが、
そんな時、車窓から朝の畑の風景が目に入ってきた。
すると一定の距離を保って、ポツリポツリと人が座っているのである。
そう、彼らは畑に排便していたのだ。
なぜこんなことを書いたのかというと
この映画が、人間の便が含む栄養分についてまで言及していたからである。
体内の不用物として排泄されるものを、栄養として吸収する需要が自然界にはあり、
それは汚いことでも醜いことでもなく、むしろ美しいことなのだということを、
本作はメタファーを用いながら語りかけてくるのだ。

下水道の整備は、インフラの最重要課題のひとつである。
つまり「臭いものに蓋をできる」ことは豊かさの表れであり、
西洋文明は「糞尿にまみれるのをいかに回避するか」を念頭に置きながら、
発展してきたといっても過言ではないのかもしれない。
しかし何度も言うようだが、元を正せば人間全員がすることだ。
地球上の生物の中で最も高度な自意識をもつ人間という生物が、
排便を恥と捉えたばかりに栄養循環のサイクルを断ち切ったり、
便器を発達させた揚句、粗大ゴミとして遺棄したりするのは、
途方もなくナンセンスなことなのではないか、
と改めて問題提起するかのような作品だった。

いまのところ、最後の野心作

フルーツ・チャン監督の作品の中で、
僕は『ハリウッド★ホンコン』が最も好きである。
大陸と香港との間に広がる断絶にこだわってきた監督の集大成ともいえる、
野心的かつ洗練された作品で、ジョウ・シュンの妖しい魅力が全編に輝きを放っていた。
本作は俳優陣こそ多彩だが、いま一度原点に立ち返ったかのような
インディ精神がみなぎっている。
個人的には2000年代に流行した、フィルムではないデジタルカメラの映像が
あまり好きではないのだが、その身軽さのお陰で
中国、韓国、インド、ニューヨークという大陸横断も可能になったのだろう。
監督自身が新しいテーマに挑戦しているところにも好感を持ったのだが、
ここ数年、”らしい新作”の音沙汰がないのが、やや心配。
『女優霊』のハリウッド・リメイクなんかを担当したようだが、
一体どうしちゃったんだろう。
「私は自由に映画を作りたいのです」と語っていた言葉通り、
才気あふれる作品を発表し続けてほしいものだ。

最後に、この映画について書いているネット上のブログをチェックしていたのだが、
ほとんどがイケメン俳優陣にしか興味のない、腐マ●コのレビューばっか。
当然本作の持つ大きなテーマに蒙を開かれることはなく、
「汚い」「生理的に受け付けない」とヒステリックに喚くばかりの内容で、
読むに値するものはひとつもなかった。
自分だって毎日、トイレに行ってるくせに、バッカじゃないの。
蛇足だが本作の名誉のために、どうしても書き加えたくなった次第だ。

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原題:Ricky
製作年:2009年
製作国:フランス/イタリア
監督:フランソワ・オゾン
出演:アレクサンドラ・ラミー、セルジ・ロペス、
メリュジーヌ・マヤンス、アルチュール・ペイレ



___________________________________

『しあわせの雨傘』の1個前にあたる作品。
公開時は見逃したのだが、名画座のスクリーンで鑑賞できた。

本作のテーマは”シングル・マザー”。
といっても安っぽい応援賛歌ではない。
オゾン監督らしい批評精神の込められた、口に苦い良薬といった趣である。

僕の友人にもシングル・マザーがふたりいる。
いずれも夜遊びのなか知り合った女性で、
お世辞にも器用に人生を生きていくタイプとは言いがたい。
共通しているのは、人生の舵取りを自らの手で行いたい思いが強いこと。
自由でいたいと願う分、他人からの援助を素直に受け付けない厳しさも
漂わせているのだ。
この点については多いに共感してしまうだけに、
損をすることも多いはず、と容易に想像がつく。

本作のヒロインはすでにひとりの子供を女手ひとつで育てており、
シングル・マザーの労苦を味わい尽くしている。
新しい男性と出逢い、幸せを感じたとしても、
どこかで相手や将来に関する疑心暗鬼の念が
湧き出るのを、抑えきれない。
心に傷があるからだ。
その相手との間に新しい命が芽生えたことで、
彼女の心は喜ぶよりもさらに頑なとなり、周囲に対して心を閉ざし、
自らシングル・マザーの道を選ぶような成り行きをたどってしまう。

占いなどに
 「愛されることを恐れないで」
 「幸せになることを、怖がっていませんか?」
などというくだりを目にすることはよくあるが、
シングル・マザーにとって、これほど耳の痛い言葉もないだろう。
彼女たちは自分の行動の責任を取るべく、
子育ての労苦を一身に背負ってきた存在なのだ。
男や他人を容易に心を開けなくなっていたとしても、無理はない。
しかしそんな潔さや頑なさゆえに、
その後の幸せを一切見送らなければならないのだとしたら、
それはあまりに救いがなく、悲しい人生なのではないか。

本作はそんなシングル・マザーに向けた、現代のおとぎ話である。
よくできた特殊技術や、ハリウッド映画並の映像編集も駆使されているが、
娯楽の域には留まらない、繊細なメッセージが織り込まれている。
さすがフランス映画という感じだ。
ひとの心のやわらかい部分に踏み込んでくる、
監督の”どS”ぶりは健在なのだが、
この作品を観たシングル・マザーたちの心は、癒し諭され、
新たな希望に対し、前向きになれるのではないだろうか。


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原題:후회하지 않아
製作年:2006年
製作国:韓国
監督:イソン・ヒル
出演:イ・ハン、イ・ヨンフン、キム・ジョンファ、
チョ・ヒョンチョル



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韓国のゲイ映画ということで鑑賞してみた作品。
監督のイソン・ヒルはこれがデビュー作で、
自らのセクシュアリティもカムアウト済みらしい。

インディペンデントに製作された作品ということなので、
それなりの覚悟(?)を持って観始めたのだが、やんちゃな破綻は少ない。
メジャー作品といわれても、はぁそうですかと納得してしまうような
出来栄えであり、それはもしかしたらすごいことなのかもしれないが、
ちょっと小器用にまとまりすぎているような印象を受けた。

絵作りの方も平均的に、上手にこなしており、
光の計算された繊細な画面が印象に残る。
夜の車中を追う場面と、屋上の場面が何度も出てくるので、
嫌でもウォン・カーウァイの『ブエノスアイレス』が想起されるが、
相当影響を受けているのか、或いは確信犯的なオマージュのつもりなのかもしれない。

基本的にプロット重視で、
魅力的だがさほど達者とも、自然ともいえない役者たちの演技が、
前面に押し出された作品である。
テレビドラマじゃないんだから、
もう少し映画的な演出を見せてくれてもいいのに、と思ってしまった。
背中がムズムズしてくるようなクサい台詞もあったりして、
結構コンサバなんだな、と感じずにはいられない。
大体登場人物を、孤児院出身にするという設定もちょっと、時代錯誤な気がしてしまう。
韓国の抱える貧富の差を問題提起したいのならわかるのだが、
そういう意図でもないんだろうし……。

そんなこんなで隠れホモが引き起こす、
凡庸な悲劇へと雪崩れ込む展開にうんざりしかけたのだが、
終盤にはちょっとした新鮮さが感じられた。
ゲイ同士の痴情のもつれによる、ここまでダイレクトな復讐の描写というのは、
これまでのどのゲイ映画にも例を見ない気がしたのだ。
隠れホモは保身を優先する”自己中”なので、
こうした修羅場が実際にあったとしても、決して不思議ではない。
本作のアイデンティティは、ここにありか!、と感じ入りかけたのだが、ちょっと待てよ。
そういえば韓国には、復讐3部作で世界的な評価を得た、
パク・ヌチャクがいましたっけ。
とすればこれも、トレンドの追従の一種に過ぎないのかもしれないなぁ……。
ラストのユーモアもなんだか唐突だし、
どうも個性が定まっていないな、という印象を拭い切れなかった。

こうして観ると、近年のアジアではやはり、
中華圏の映画の面白さが抜きん出ている気がしてしまう。
韓国や日本にももっと、頑張って欲しい。
それにはもっともっと、エンタメにうんざりしなきゃダメなんだろうけど、
肝心の若い世代がテレビ漬けじゃあね。
でも僕も、もっと韓国の映画を観てみなきゃいけないなと思った次第。


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製作年:2001年
製作国:日本
監督:橋口亮輔
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、
つぐみ、秋野暢子、冨士真奈美



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僕はゲイなのに、こと日本のゲイ映画に関すると
あまり観てきていないなぁ、なんてふと思い当たり、この作品を探した
(まぁ、それほど作品がないせいもあるんだけど)。
公開当時にはもう二丁目デビューも済んでいたので、
映画館で観ていても良さそうなものなのに……、我ながらひねくれている。
たぶん身内ウケの雰囲気に交わるのを、
潔しとしない気分があったのだろう。
実際、ゲイバーのシーンに登場するエキストラの中には、
個人的に知った顔が見受けられた。

登場人物のライフスタイルを紹介する意味もあり、
前半には「ゲイ映画のお約束」的な展開も、ちらほら。
それだけだったら、この映画に
あまりいい印象を持たなかったと思うのだが、
主人公の里帰りあたりから、映像にはグッと深みが増してくる。
ゲイにとってのサンクチュアリである都会の歓楽街だけでなく、
草深い田舎を背景に登場させる手法は、
野心的なゲイ映画にとって、必要不可欠な試みであるに違いない。

1992年に公開されている『きらきらひかる』同様、
本作のテーマは”新しい家族のかたちの模索”である。
自分、或いは相手がゲイであることを受け入れ、
それでもなお家族たらんとする男女の苦闘を描いていること、
またその成否を明示しないエンディングまでが、同じ。
10年経って、表現は何も変わっていないのか、と思わないでもないが、
橋口監督自身がゲイであり、また脚本を担当していることもあって、
内容はより深く突き詰められ、構造も多重化しているところを、評価しておきたい。

サバサバしていて、意見をはっきりと言う直也(高橋和也)と、
グジグジしていて優柔不断な勝裕(田辺誠一)のゲイカップルは、
性格の明暗が分かれるが、
”新しい家族のかたち”に対し、保守的な意見を持っているのは、
直也のほうである。
性格がはっきりしている分、物事を白黒に分けてしまい、
結果としてストレートのために作られた社会の規範に、
自ら収まろうとしてしまうのだ。
橋口監督は、グレーの可能性を放棄してしまうゲイの哀しい潔さを、
これまでのどの日本製ゲイ映画よりも、自然に描いている。

また古い家族制を必死に貫いてきたストレートたちが唱える、
何人にも決して否定することは難しい正論も、
本作の中では肯定的に描かれている。
”新しい家族のかたち”を奨励したいと願いながら、
それは簡単なことではないんだぞ、
ひとつひとつの困難を確実に乗り越えられるのか、問い質していくべきだ、
と監督は考えているわけだ。
そうした厳しさが結果として物語に深みを与え、
どこに出しても恥ずかしくない一定のクオリティを、
映画全体に与えているのではないか、という印象を受けた。

つまらないテレビドラマに脇役として出演していた俳優たちが、
ひとりの役者として、個性や力量を発揮している姿にも瞠目した。
冨士真奈美のコメディエンヌぶりはオカマ以上にキャンプで、
恐らくゲイもストレートも、等しく笑わされてしまうだろう。
また個人的に最も気に入ったのは、なぜかゲイの登場人物ではなく、
被害者意識に凝り固まった田舎の人妻(秋野暢子)。
そのキャラクターを魅力的に輝かせているのは、陰日向のない関西弁で、
修羅場に響き渡る怒声にさえ、どこか清々しい実直さが貫かれている。
標準語とは似て非なる、その響きの妙を味わいつくせるのは、
字幕に頼らず台詞を耳で楽しめる、日本人だけの特権なのだ
(本作はカンヌ映画祭の監督週間にも招待され、欧米でも公開されている)。

話が逸れてしまったが、今日本の芸能界で俳優の地位は総じて低く、
映画の世界でさえ、タレントに活躍の場を奪われている。
しかし、そんな中でも逞しく鍛え上げられてきた彼らのパフォーマンスは、
本作のような、エンタメの主流から一歩外れた映画の中で確認できるわけだ。
もっと近年の邦画も観なくては、と改めて感じさせてくれた作品だった。

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