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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。 同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
製作年:2001年
製作国:日本
監督:橋口亮輔
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、
つぐみ、秋野暢子、冨士真奈美

___________________________________
僕はゲイなのに、こと日本のゲイ映画に関すると
あまり観てきていないなぁ、なんてふと思い当たり、この作品を探した
(まぁ、それほど作品がないせいもあるんだけど)。
公開当時にはもう二丁目デビューも済んでいたので、
映画館で観ていても良さそうなものなのに……、我ながらひねくれている。
たぶん身内ウケの雰囲気に交わるのを、
潔しとしない気分があったのだろう。
実際、ゲイバーのシーンに登場するエキストラの中には、
個人的に知った顔が見受けられた。
登場人物のライフスタイルを紹介する意味もあり、
前半には「ゲイ映画のお約束」的な展開も、ちらほら。
それだけだったら、この映画に
あまりいい印象を持たなかったと思うのだが、
主人公の里帰りあたりから、映像にはグッと深みが増してくる。
ゲイにとってのサンクチュアリである都会の歓楽街だけでなく、
草深い田舎を背景に登場させる手法は、
野心的なゲイ映画にとって、必要不可欠な試みであるに違いない。
1992年に公開されている『きらきらひかる』同様、
本作のテーマは”新しい家族のかたちの模索”である。
自分、或いは相手がゲイであることを受け入れ、
それでもなお家族たらんとする男女の苦闘を描いていること、
またその成否を明示しないエンディングまでが、同じ。
10年経って、表現は何も変わっていないのか、と思わないでもないが、
橋口監督自身がゲイであり、また脚本を担当していることもあって、
内容はより深く突き詰められ、構造も多重化しているところを、評価しておきたい。
サバサバしていて、意見をはっきりと言う直也(高橋和也)と、
グジグジしていて優柔不断な勝裕(田辺誠一)のゲイカップルは、
性格の明暗が分かれるが、
”新しい家族のかたち”に対し、保守的な意見を持っているのは、
直也のほうである。
性格がはっきりしている分、物事を白黒に分けてしまい、
結果としてストレートのために作られた社会の規範に、
自ら収まろうとしてしまうのだ。
橋口監督は、グレーの可能性を放棄してしまうゲイの哀しい潔さを、
これまでのどの日本製ゲイ映画よりも、自然に描いている。
また古い家族制を必死に貫いてきたストレートたちが唱える、
何人にも決して否定することは難しい正論も、
本作の中では肯定的に描かれている。
”新しい家族のかたち”を奨励したいと願いながら、
それは簡単なことではないんだぞ、
ひとつひとつの困難を確実に乗り越えられるのか、問い質していくべきだ、
と監督は考えているわけだ。
そうした厳しさが結果として物語に深みを与え、
どこに出しても恥ずかしくない一定のクオリティを、
映画全体に与えているのではないか、という印象を受けた。
つまらないテレビドラマに脇役として出演していた俳優たちが、
ひとりの役者として、個性や力量を発揮している姿にも瞠目した。
冨士真奈美のコメディエンヌぶりはオカマ以上にキャンプで、
恐らくゲイもストレートも、等しく笑わされてしまうだろう。
また個人的に最も気に入ったのは、なぜかゲイの登場人物ではなく、
被害者意識に凝り固まった田舎の人妻(秋野暢子)。
そのキャラクターを魅力的に輝かせているのは、陰日向のない関西弁で、
修羅場に響き渡る怒声にさえ、どこか清々しい実直さが貫かれている。
標準語とは似て非なる、その響きの妙を味わいつくせるのは、
字幕に頼らず台詞を耳で楽しめる、日本人だけの特権なのだ
(本作はカンヌ映画祭の監督週間にも招待され、欧米でも公開されている)。
話が逸れてしまったが、今日本の芸能界で俳優の地位は総じて低く、
映画の世界でさえ、タレントに活躍の場を奪われている。
しかし、そんな中でも逞しく鍛え上げられてきた彼らのパフォーマンスは、
本作のような、エンタメの主流から一歩外れた映画の中で確認できるわけだ。
もっと近年の邦画も観なくては、と改めて感じさせてくれた作品だった。
ポチッとお願いします★
製作国:日本
監督:橋口亮輔
出演:田辺誠一、高橋和也、片岡礼子、
つぐみ、秋野暢子、冨士真奈美
___________________________________
僕はゲイなのに、こと日本のゲイ映画に関すると
あまり観てきていないなぁ、なんてふと思い当たり、この作品を探した
(まぁ、それほど作品がないせいもあるんだけど)。
公開当時にはもう二丁目デビューも済んでいたので、
映画館で観ていても良さそうなものなのに……、我ながらひねくれている。
たぶん身内ウケの雰囲気に交わるのを、
潔しとしない気分があったのだろう。
実際、ゲイバーのシーンに登場するエキストラの中には、
個人的に知った顔が見受けられた。
登場人物のライフスタイルを紹介する意味もあり、
前半には「ゲイ映画のお約束」的な展開も、ちらほら。
それだけだったら、この映画に
あまりいい印象を持たなかったと思うのだが、
主人公の里帰りあたりから、映像にはグッと深みが増してくる。
ゲイにとってのサンクチュアリである都会の歓楽街だけでなく、
草深い田舎を背景に登場させる手法は、
野心的なゲイ映画にとって、必要不可欠な試みであるに違いない。
1992年に公開されている『きらきらひかる』同様、
本作のテーマは”新しい家族のかたちの模索”である。
自分、或いは相手がゲイであることを受け入れ、
それでもなお家族たらんとする男女の苦闘を描いていること、
またその成否を明示しないエンディングまでが、同じ。
10年経って、表現は何も変わっていないのか、と思わないでもないが、
橋口監督自身がゲイであり、また脚本を担当していることもあって、
内容はより深く突き詰められ、構造も多重化しているところを、評価しておきたい。
サバサバしていて、意見をはっきりと言う直也(高橋和也)と、
グジグジしていて優柔不断な勝裕(田辺誠一)のゲイカップルは、
性格の明暗が分かれるが、
”新しい家族のかたち”に対し、保守的な意見を持っているのは、
直也のほうである。
性格がはっきりしている分、物事を白黒に分けてしまい、
結果としてストレートのために作られた社会の規範に、
自ら収まろうとしてしまうのだ。
橋口監督は、グレーの可能性を放棄してしまうゲイの哀しい潔さを、
これまでのどの日本製ゲイ映画よりも、自然に描いている。
また古い家族制を必死に貫いてきたストレートたちが唱える、
何人にも決して否定することは難しい正論も、
本作の中では肯定的に描かれている。
”新しい家族のかたち”を奨励したいと願いながら、
それは簡単なことではないんだぞ、
ひとつひとつの困難を確実に乗り越えられるのか、問い質していくべきだ、
と監督は考えているわけだ。
そうした厳しさが結果として物語に深みを与え、
どこに出しても恥ずかしくない一定のクオリティを、
映画全体に与えているのではないか、という印象を受けた。
つまらないテレビドラマに脇役として出演していた俳優たちが、
ひとりの役者として、個性や力量を発揮している姿にも瞠目した。
冨士真奈美のコメディエンヌぶりはオカマ以上にキャンプで、
恐らくゲイもストレートも、等しく笑わされてしまうだろう。
また個人的に最も気に入ったのは、なぜかゲイの登場人物ではなく、
被害者意識に凝り固まった田舎の人妻(秋野暢子)。
そのキャラクターを魅力的に輝かせているのは、陰日向のない関西弁で、
修羅場に響き渡る怒声にさえ、どこか清々しい実直さが貫かれている。
標準語とは似て非なる、その響きの妙を味わいつくせるのは、
字幕に頼らず台詞を耳で楽しめる、日本人だけの特権なのだ
(本作はカンヌ映画祭の監督週間にも招待され、欧米でも公開されている)。
話が逸れてしまったが、今日本の芸能界で俳優の地位は総じて低く、
映画の世界でさえ、タレントに活躍の場を奪われている。
しかし、そんな中でも逞しく鍛え上げられてきた彼らのパフォーマンスは、
本作のような、エンタメの主流から一歩外れた映画の中で確認できるわけだ。
もっと近年の邦画も観なくては、と改めて感じさせてくれた作品だった。
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原題:Entre Rojas
製作年:1994年
製作国:スペイン
監督:アスセナ・ロドリゲス
出演:ペネロペ・クルス、クリスティナ・マルコス、
マリア・プヤルテ、アナ・トレント、カルメロ・ゴメス

_________________________________________
スペイン映画は、アメリカやフランス映画に比べると、
日本に入ってくる本数が圧倒的に少ない。
しかしスターがひとり産まれるだけで、状況は変わる。
本作は、ハリウッドで成功する以前の
ペネロペ・クルス主演作だったお陰で、
めでたく日本でも鑑賞できるようになった。
劇場公開はなくても、DVDの版権を獲得しようという動きが生まれ、
90年代のスペイン映画が観れるようになるのだ。
大変ありがたい、ペネロペ万歳!
しかしこの邦題、何だか胡散臭くていただけないなぁ。
セクシーなシーンは皆無の、至って硬派な映画なのにね。
女優=エロティックという公式を打ち立てなければ売れない、
と考えている制作会社の体質って、一体いつになったら改まるんだろう?
本作の舞台は、独裁政権下の70年代。
僕の大好きな『死んでしまったら私のことなんか誰も話さない』も
そうだったが、90年代のスペイン映画には、
体制に立ち向かった活動家たちを讃える、
骨太のヒューマン映画がよく制作されている。
これは恐らく、監督たちの”世代”によるところも大きいのだろう。
物語は政治犯が収監されている女性房で展開していくのだが、
日本人の僕が想像するより、スペインの刑務所はずっと自由な雰囲気で、
囚人たちもどこか朗らかに描かれていく。
時に爆発する不満や怒りの表現でさえ、とても情熱的で、
またまた強いエキゾチズムを感じてしまった次第。
世間知らずのお嬢が政治に巻き込まれ、刑務所に入れられ、
やがては高潔な闘士の微笑を浮かべるようになる展開が力強く、
鑑賞後には静かな感動に包まれた。
個人的には、脇を固める俳優陣に、
見憶えのある顔が増えてきたのも嬉しい。
本作では、先述の『死んでしまったら~』で主人公の義母役を演じていた、
ピラル・ハルデム(ハビエル・ハルデムの実母。
つまり、ペネロペにとっては未来の義母!)や、
セクシーなカルロス・ゴメスらの姿を確認できた。
元渋谷系諸氏ならピクリと反応するであろう、
アナ・トレント(『カラスの飼育』)が、
看守役ですっかり大人の女性に変身した姿を見せてくれたのも、驚きだ。
ペネロペ主演映画DVDには、まだたくさんあるので、
手っ取り早くスペイン映画を観たいときに、
そしてスペイン映画独特の解放感を感じたいときに、最適。
本作を観て、未見のものを鑑賞するのがますます楽しみになってきた。
ポチッとしてくれたあなた、テ・キエーロ★
製作年:1994年
製作国:スペイン
監督:アスセナ・ロドリゲス
出演:ペネロペ・クルス、クリスティナ・マルコス、
マリア・プヤルテ、アナ・トレント、カルメロ・ゴメス
_________________________________________
スペイン映画は、アメリカやフランス映画に比べると、
日本に入ってくる本数が圧倒的に少ない。
しかしスターがひとり産まれるだけで、状況は変わる。
本作は、ハリウッドで成功する以前の
ペネロペ・クルス主演作だったお陰で、
めでたく日本でも鑑賞できるようになった。
劇場公開はなくても、DVDの版権を獲得しようという動きが生まれ、
90年代のスペイン映画が観れるようになるのだ。
大変ありがたい、ペネロペ万歳!
しかしこの邦題、何だか胡散臭くていただけないなぁ。
セクシーなシーンは皆無の、至って硬派な映画なのにね。
女優=エロティックという公式を打ち立てなければ売れない、
と考えている制作会社の体質って、一体いつになったら改まるんだろう?
本作の舞台は、独裁政権下の70年代。
僕の大好きな『死んでしまったら私のことなんか誰も話さない』も
そうだったが、90年代のスペイン映画には、
体制に立ち向かった活動家たちを讃える、
骨太のヒューマン映画がよく制作されている。
これは恐らく、監督たちの”世代”によるところも大きいのだろう。
物語は政治犯が収監されている女性房で展開していくのだが、
日本人の僕が想像するより、スペインの刑務所はずっと自由な雰囲気で、
囚人たちもどこか朗らかに描かれていく。
時に爆発する不満や怒りの表現でさえ、とても情熱的で、
またまた強いエキゾチズムを感じてしまった次第。
世間知らずのお嬢が政治に巻き込まれ、刑務所に入れられ、
やがては高潔な闘士の微笑を浮かべるようになる展開が力強く、
鑑賞後には静かな感動に包まれた。
個人的には、脇を固める俳優陣に、
見憶えのある顔が増えてきたのも嬉しい。
本作では、先述の『死んでしまったら~』で主人公の義母役を演じていた、
ピラル・ハルデム(ハビエル・ハルデムの実母。
つまり、ペネロペにとっては未来の義母!)や、
セクシーなカルロス・ゴメスらの姿を確認できた。
元渋谷系諸氏ならピクリと反応するであろう、
アナ・トレント(『カラスの飼育』)が、
看守役ですっかり大人の女性に変身した姿を見せてくれたのも、驚きだ。
ペネロペ主演映画DVDには、まだたくさんあるので、
手っ取り早くスペイン映画を観たいときに、
そしてスペイン映画独特の解放感を感じたいときに、最適。
本作を観て、未見のものを鑑賞するのがますます楽しみになってきた。
ポチッとしてくれたあなた、テ・キエーロ★
原題:Angel
製作年:2007年
製作国:イギリス/フランス/ベルギー
監督:フランソワ・オゾン
出演:ロモーラ・ガライ、サム・ニール、ルーシー・ラッセル、
シャーロット・ランプリング、マイケル・ファスビンダー

___________________________________
『焼け石に水』以降のオゾン監督作品は、だいたい観ているのだが
(あ、『リッキー』はまだ観てないけど)、
作品によって、鑑賞後に釈然としない思いが残ることが、よくあった。
それが何なのか、明確に答えられなかったのだが、
この作品を観て、わかったことがある。
フランソワ・オゾンは”ドS”なのである。
友人に薦められて原作の小説を読んだというオゾン監督は、
主人公のエンジェルに惚れこんだらしい。
しかし映画内でのエンジェルの描き方といったら、まるで容赦がない。
その魅力より、欠点や欺瞞を暴き出すことに重点を置いている印象すら、
与えるほどなのだ。
人や事象に魅了されたとき、あなたの心は、
その表側だけでなく、裏側まで知ろうという動きを見せるだろうか。
僕はそう願うタイプだ。
これは「できるだけ真理を探究したい」という生き方に基づいた
欲求の発露であり、自分自身に矛盾を感じることは、ない。
より深く知ることで、さらに魅了される場合もあれば、
幻滅を抱く場合もあるだろう。
しかし、自分にとって都合の好い思い込みだけを
積み重ねていくような現象認識には、価値がないと感じる。
オゾン監督もきっと、同じはずである。
ではなぜ、彼と僕との感覚に断絶が生じるのであろうか。
恐らく、動機が違うのである。
独占欲の強さか、それとも保身の表れか。
僕は恐らく後者だ。
曖昧なものに価値を置くことで、自分を傷つけたくない、
自分を貶めたくないという、どこか消極的な発想なのである。
しかし積極的だからといって、よいことばかりとは限らない。
自身の欲求を満たすがために、
事象の核心にズカズカと入り込んでいく行為はエゴイスティックで、
慎みに欠けやしまいか。
いかにも個人主義の欧米人らしい発想だし、植民地主義的だとすら感じる。
僕がオゾン監督に憶える不快感とエキゾチズムの源泉はここにあるのだと、
今回思い当たった次第だ。
しかし映画監督として、やはり無視できない力量を持った
人物であることだけは確かだ。
ストーリーテリングの巧みさ、絵作りの素晴らしさ、
細部へのこだわり、そして魅力的な俳優を巻き込んでいく求心力……。
本作も現代映画に求めたい及第点を、軽く超えてくる。
透徹すぎる視点にうんざりさせられることも多々あるが、
今後も彼の作品に、注目してしまうんだろうなぁ。
ポチッとお願いします★
製作年:2007年
製作国:イギリス/フランス/ベルギー
監督:フランソワ・オゾン
出演:ロモーラ・ガライ、サム・ニール、ルーシー・ラッセル、
シャーロット・ランプリング、マイケル・ファスビンダー
___________________________________
『焼け石に水』以降のオゾン監督作品は、だいたい観ているのだが
(あ、『リッキー』はまだ観てないけど)、
作品によって、鑑賞後に釈然としない思いが残ることが、よくあった。
それが何なのか、明確に答えられなかったのだが、
この作品を観て、わかったことがある。
フランソワ・オゾンは”ドS”なのである。
友人に薦められて原作の小説を読んだというオゾン監督は、
主人公のエンジェルに惚れこんだらしい。
しかし映画内でのエンジェルの描き方といったら、まるで容赦がない。
その魅力より、欠点や欺瞞を暴き出すことに重点を置いている印象すら、
与えるほどなのだ。
人や事象に魅了されたとき、あなたの心は、
その表側だけでなく、裏側まで知ろうという動きを見せるだろうか。
僕はそう願うタイプだ。
これは「できるだけ真理を探究したい」という生き方に基づいた
欲求の発露であり、自分自身に矛盾を感じることは、ない。
より深く知ることで、さらに魅了される場合もあれば、
幻滅を抱く場合もあるだろう。
しかし、自分にとって都合の好い思い込みだけを
積み重ねていくような現象認識には、価値がないと感じる。
オゾン監督もきっと、同じはずである。
ではなぜ、彼と僕との感覚に断絶が生じるのであろうか。
恐らく、動機が違うのである。
独占欲の強さか、それとも保身の表れか。
僕は恐らく後者だ。
曖昧なものに価値を置くことで、自分を傷つけたくない、
自分を貶めたくないという、どこか消極的な発想なのである。
しかし積極的だからといって、よいことばかりとは限らない。
自身の欲求を満たすがために、
事象の核心にズカズカと入り込んでいく行為はエゴイスティックで、
慎みに欠けやしまいか。
いかにも個人主義の欧米人らしい発想だし、植民地主義的だとすら感じる。
僕がオゾン監督に憶える不快感とエキゾチズムの源泉はここにあるのだと、
今回思い当たった次第だ。
しかし映画監督として、やはり無視できない力量を持った
人物であることだけは確かだ。
ストーリーテリングの巧みさ、絵作りの素晴らしさ、
細部へのこだわり、そして魅力的な俳優を巻き込んでいく求心力……。
本作も現代映画に求めたい及第点を、軽く超えてくる。
透徹すぎる視点にうんざりさせられることも多々あるが、
今後も彼の作品に、注目してしまうんだろうなぁ。
ポチッとお願いします★
原題:The Runaways
製作年:2010年
製作国:アメリカ
監督:フローリア・シジスモンティ
出演:クリステン・スチュワート、ダコダ・ファニング、
マイケル・スチュワート、テイタム・オニール

___________________________________
僕は大の音楽好きだが、なかでも特に、女性の表現に注目している。
女の子バンドは、もちろん大好物!
この映画の主役であるバンド、ランナウェイズが、好きだった時期もある
(リアルタイムではないが……)。
しかしポップ・ミュージックカルチャーにより深くはまるに連れ、
彼女たちへの興味は薄れていった。
「ダサい」と蔑むようにすら、なっていたかもしれない。
ロックが男の物だった時代に登場したランナウェイズは、
男以上に激しいイメージ、サウンドを打ち出そうと、無理を重ねていた。
80年代のニューウェーヴ以降、
よりナチュラルでしなやかな女性ミュージシャンたちが登場したことで、
ランナウェイズの遺した不自然かつキワ物的なイメージは、
際立って見えるようになってしまったのかもしれない。
僕の大好きな日本の女の子バンド、ゼルダのメンバーはこう語っている。
「今まで女の子バンドというと、下着みたいな格好で歌うランナウェイズとか、
その真似をした日本のガールズしかいなかった。
私たちは女性だけでもアートの香りが漂うような、本物のバンドをやりたい」
女の子バンドのパイオニアのひとつとして、
道を切り拓こうと懸命だったランナウェイズは、
逆に反面教師のような存在として、忌み嫌われるまでになってしまったのである。
女の子バンドのプロデュースが暗中模索だった時代に、
自己表現を計ろうとした少女たちは、
どんなやり方で活路を見出そうとしたのか。
そして、なぜ同性からのリスペクトを得られなかったのか。
彼女たちの迷い、そして苦悩は、本作の中でつぶさに描かれていく。
音楽映画でもなく、伝記映画でもなく、
女性映画として立派に機能している作品だ。
ランナウェイズのメンバーの一人であり、
解散後に最も大きな成功を収めたジョーン・ジェットは、
本作の監修を担当している。
そのためかストーリーに大きな破綻はないが、
自らの同性愛傾向を包み隠さず描かせていることに、驚いた。
ヴォーカルのシェリーとの間に、
肉体関係を含む愛情の交歓があったなんて、想像もしなかったのだ。
女性バンド内でのレズビアン関係なんて、
当時にしてみれば、あまりにお誂え向きのスキャンダル。
セレブたちが次々とカミングアウトを試みる現代とは違い、
表沙汰になったら、致命的な打撃を受けたと思う。
しかしジョーンのキャラクターを鑑みれば、
それはあまりに自然なことだった。
もしかしたら僕が知らなかっただけで、
近年に公式のカミングアウトもあったのかもしれない。
とにかく彼女は、さまざまな意味でパイオニアだったのである。
本作で長編は2作目だという、
新進女性監督のフローリア・シジスモンティは、PV畑の出身。
ビョークやマリリン・マンソン、そしてクリスティーナ・アギレラなど、
人気アーティストたちの作品を手がけてきたことで知られている。
今回は俳優たちの頑張りや、ランナウェイズという”レジェンド”の
陰に隠れるかたちとなり、自己主張は控え目だが、
エレベータの中で朦朧とするシェリーや、
行き詰ったジョーンの描写などに垣間見える、幻想的なタッチに個性を感じた。
次回作ではぜひ、その作家性を存分に発揮してもらいたい。
悩殺爆弾のスイッチを、ポチッ★
製作年:2010年
製作国:アメリカ
監督:フローリア・シジスモンティ
出演:クリステン・スチュワート、ダコダ・ファニング、
マイケル・スチュワート、テイタム・オニール
___________________________________
僕は大の音楽好きだが、なかでも特に、女性の表現に注目している。
女の子バンドは、もちろん大好物!
この映画の主役であるバンド、ランナウェイズが、好きだった時期もある
(リアルタイムではないが……)。
しかしポップ・ミュージックカルチャーにより深くはまるに連れ、
彼女たちへの興味は薄れていった。
「ダサい」と蔑むようにすら、なっていたかもしれない。
ロックが男の物だった時代に登場したランナウェイズは、
男以上に激しいイメージ、サウンドを打ち出そうと、無理を重ねていた。
80年代のニューウェーヴ以降、
よりナチュラルでしなやかな女性ミュージシャンたちが登場したことで、
ランナウェイズの遺した不自然かつキワ物的なイメージは、
際立って見えるようになってしまったのかもしれない。
僕の大好きな日本の女の子バンド、ゼルダのメンバーはこう語っている。
「今まで女の子バンドというと、下着みたいな格好で歌うランナウェイズとか、
その真似をした日本のガールズしかいなかった。
私たちは女性だけでもアートの香りが漂うような、本物のバンドをやりたい」
女の子バンドのパイオニアのひとつとして、
道を切り拓こうと懸命だったランナウェイズは、
逆に反面教師のような存在として、忌み嫌われるまでになってしまったのである。
女の子バンドのプロデュースが暗中模索だった時代に、
自己表現を計ろうとした少女たちは、
どんなやり方で活路を見出そうとしたのか。
そして、なぜ同性からのリスペクトを得られなかったのか。
彼女たちの迷い、そして苦悩は、本作の中でつぶさに描かれていく。
音楽映画でもなく、伝記映画でもなく、
女性映画として立派に機能している作品だ。
ランナウェイズのメンバーの一人であり、
解散後に最も大きな成功を収めたジョーン・ジェットは、
本作の監修を担当している。
そのためかストーリーに大きな破綻はないが、
自らの同性愛傾向を包み隠さず描かせていることに、驚いた。
ヴォーカルのシェリーとの間に、
肉体関係を含む愛情の交歓があったなんて、想像もしなかったのだ。
女性バンド内でのレズビアン関係なんて、
当時にしてみれば、あまりにお誂え向きのスキャンダル。
セレブたちが次々とカミングアウトを試みる現代とは違い、
表沙汰になったら、致命的な打撃を受けたと思う。
しかしジョーンのキャラクターを鑑みれば、
それはあまりに自然なことだった。
もしかしたら僕が知らなかっただけで、
近年に公式のカミングアウトもあったのかもしれない。
とにかく彼女は、さまざまな意味でパイオニアだったのである。
本作で長編は2作目だという、
新進女性監督のフローリア・シジスモンティは、PV畑の出身。
ビョークやマリリン・マンソン、そしてクリスティーナ・アギレラなど、
人気アーティストたちの作品を手がけてきたことで知られている。
今回は俳優たちの頑張りや、ランナウェイズという”レジェンド”の
陰に隠れるかたちとなり、自己主張は控え目だが、
エレベータの中で朦朧とするシェリーや、
行き詰ったジョーンの描写などに垣間見える、幻想的なタッチに個性を感じた。
次回作ではぜひ、その作家性を存分に発揮してもらいたい。
悩殺爆弾のスイッチを、ポチッ★
製作年:1985年
製作国:日本
監督:相米慎二
出演:工藤夕貴、三上祐一、大西結花、
三浦友和、尾美としのり

_________________________________________
80年代のATG映画(ディレクターズ・カンパニーとの共同制作)。
豪雨、むせ返るような湿気、そして非日常的な雰囲気に包まれる
台風の1日が物語の主軸となっており、観ていて心地よい。
しかし主題となる「思春期ならではの衝動」とか「純粋さ」には、
さほど興味が湧かなかった。
僕にとっては過ぎたことだし、いち早く忘れてしまっても構わない、とすら思う事象だ。
「俺たちには厳粛な生の前提となる、厳粛な死がない。
だから俺は死んでみせる。お前たちのために」
という台詞と、その後の滑稽な死体描写にはグッと来るものがあったが……。
まぁ観る者によって好みが分かれる、青臭いテーマであることは確かだ。
演出は、やや図式的。
果たして日本の若者は、解放感を体現するに当たり、「踊る」だろうか?
僕は「踊れない」と思う。
きっと俳優を厳しく追い込んで「踊らせている」んだろうな、と思うと、
なんだか行き場のない気持ちになった。
セックスや暴力の要素が多分に盛り込まれているのは現代的で、
展開には緊張感がある。
総じて映画としては、純粋に楽しめる作品だった。
俳優たちのその後に思いを馳せ、情報を検索できるのは、
同じ日本人に許された特権かもしれない。
工藤夕貴は本作など、作品性の強い映画への出演が続いたことで海外から注目され、
永瀬正敏とともにジム・ジャームッシュの作品に起用された。
その後も海外作品に出演する機会に恵まれ、
近年は国内メジャーの作品にも顔を出している。
欧米にはインディペンデント作品のミューズとして
活路を見出す女優の在り方や、人材を受け入れ育てる環境があるが、
日本人がその射程距離に入れることは、かなり稀。
驚くべき強運の持ち主といえるだろう。
公開当時には工藤夕貴を抑え、映画祭の新人賞を獲得した
大西結花だったが、同年にアイドルデビュー。
人気ドラマ『スケバン刑事3』に出演するなどして、
使い捨てのメジャー路線へ進んだ。
現在は細々と芸能活動を続けているらしい。
少年と男の狭間を行き来する実存を見事に体現した三上祐一は、
その後俳優活動を続けたものの、90年代にフェードアウト。
現在、常人には理解不能な極北のネット住人と成り果てている姿を確認した。
映画と自分の作り出したキャラクターに、殉じるような人生を送っている様子だ。
それにしても近年の日本には、作品性の強い映画を主戦場としている
俳優が少ないな、と改めて思った。
男だと浅野忠信とか松田龍平ぐらい? いずれも出演作は見たことがないが。
女優に至っては、思い当たらない。
今年はもっとインディ邦画を観て、俳優の青田買いとかしてみようかな……。
ポチッとお願いいたします★
製作国:日本
監督:相米慎二
出演:工藤夕貴、三上祐一、大西結花、
三浦友和、尾美としのり
_________________________________________
80年代のATG映画(ディレクターズ・カンパニーとの共同制作)。
豪雨、むせ返るような湿気、そして非日常的な雰囲気に包まれる
台風の1日が物語の主軸となっており、観ていて心地よい。
しかし主題となる「思春期ならではの衝動」とか「純粋さ」には、
さほど興味が湧かなかった。
僕にとっては過ぎたことだし、いち早く忘れてしまっても構わない、とすら思う事象だ。
「俺たちには厳粛な生の前提となる、厳粛な死がない。
だから俺は死んでみせる。お前たちのために」
という台詞と、その後の滑稽な死体描写にはグッと来るものがあったが……。
まぁ観る者によって好みが分かれる、青臭いテーマであることは確かだ。
演出は、やや図式的。
果たして日本の若者は、解放感を体現するに当たり、「踊る」だろうか?
僕は「踊れない」と思う。
きっと俳優を厳しく追い込んで「踊らせている」んだろうな、と思うと、
なんだか行き場のない気持ちになった。
セックスや暴力の要素が多分に盛り込まれているのは現代的で、
展開には緊張感がある。
総じて映画としては、純粋に楽しめる作品だった。
俳優たちのその後に思いを馳せ、情報を検索できるのは、
同じ日本人に許された特権かもしれない。
工藤夕貴は本作など、作品性の強い映画への出演が続いたことで海外から注目され、
永瀬正敏とともにジム・ジャームッシュの作品に起用された。
その後も海外作品に出演する機会に恵まれ、
近年は国内メジャーの作品にも顔を出している。
欧米にはインディペンデント作品のミューズとして
活路を見出す女優の在り方や、人材を受け入れ育てる環境があるが、
日本人がその射程距離に入れることは、かなり稀。
驚くべき強運の持ち主といえるだろう。
公開当時には工藤夕貴を抑え、映画祭の新人賞を獲得した
大西結花だったが、同年にアイドルデビュー。
人気ドラマ『スケバン刑事3』に出演するなどして、
使い捨てのメジャー路線へ進んだ。
現在は細々と芸能活動を続けているらしい。
少年と男の狭間を行き来する実存を見事に体現した三上祐一は、
その後俳優活動を続けたものの、90年代にフェードアウト。
現在、常人には理解不能な極北のネット住人と成り果てている姿を確認した。
映画と自分の作り出したキャラクターに、殉じるような人生を送っている様子だ。
それにしても近年の日本には、作品性の強い映画を主戦場としている
俳優が少ないな、と改めて思った。
男だと浅野忠信とか松田龍平ぐらい? いずれも出演作は見たことがないが。
女優に至っては、思い当たらない。
今年はもっとインディ邦画を観て、俳優の青田買いとかしてみようかな……。
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