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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。 同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
原題:SUPER SIZE ME
製作年:2004年
製作国:アメリカ
監督:モーガン・スパーロック

________________________
朝昼晩マクドナルドばっかり1ヶ月間食べ続けたら、
どうなるのかというドキュメンタリー。
前々から観ようとは思っていたんだけど、
ドキュメンタリーが面白いと困っちゃう……、
映画を観る気が失せてしまいそうで怖いのだ。
評価のポイントが違うといえばそれまでだし、
ドキュメンタリーとはいえ、監督がいる作品なのだから、
事実が歪曲されている可能性だってあるかもしれない。
それでも下手な映画人の妄想を映像化した作品より、
事実は奇なりな場合は、多々ありそうだ。
同じようなことが活字の世界にもあてはまり、文学はと~んとご無沙汰。
読むものといったら、やはりドキュメンタリー、
そしてエッセイ、評論ばかりという有様だ。
活劇のほうはそうならないように、バランスを取っていかないと……、
去年もBBCのドキュメントばっかり観ていた時期があったしなぁ。
ドキュメントのありがたみは、知的好奇心を充足させてくれるところにある。
ニュースのヘッドラインに登場するような目先の問題ではなく、
その背景にある前提、原因、温床などに光を当てたものほど面白く、
鑑賞後の満足感は大きい。
本作もおふざけで人体実験を行っているわけではなく、
アメリカ社会が抱える問題の、発端の一部はどうも食生活にありそうだぞ、
だからそこを暴いてやるぞ、という意思を貫いているところが素晴らしかった。
特に面白いエピソードが二つあった。
まず、科学的に分析すると、バーガーのパテの上に乗ったチーズからは、
モルヒネの成分が検出されるという。つまり軽度の中毒性があるのだ。
今回人体実験を自ら行った監督も、
食間には気分が落ち込み、食後には気分が高揚するという症状を呈している。
マクドナルドは、週一回の利用者を”ヘビーユーザー”とみなすらしいが、
どうしよう、僕も週末のランチに1回はマクドナルドの「ビッグマックセット」を
食べている気がするのだ。これはもう中毒だろうか。
もうひとつ。
マクドナルドなど、アメリカ人の食生活を侵食するジャンクフードは、
糖分と脂分の塊であり、のべつまもなく飲み食いしていたら、太らないはずはない。
事実”肥満”の2文字は大問題としてアメリカ社会を震撼させているのだが、
ジャンクフードの功罪は、どうもそれだけに留まらないようなのだ。
本作では、とある学校で校内から炭酸飲料の自動販売機を撤去したところ、
生徒たちの集中力が高まり、教室内での問題も減少したという事例が紹介されている。
そういえば僕も学生時代の夏休み、
うっかりどこにも外出しない日の夜中にフラフラと、炭酸飲料を買いに行ったっけ。
つまり、あの強烈なパンチ力と糖分は、一種の刺激剤なのである、くわばらくわばら。
マクドナルドを食べ続けて20日後に、監督の肝機能は著しく低下していた。
末期のアルコール中毒患者と同様の症状を呈していたのだ。
アルコールは市民生活に浸透している半面、
「危険」や「背徳」のイメージを色濃く併せ持ち、中毒患者は忌み嫌われるが、
ジャンクフード中毒なんて、一笑に付されるのがせいぜいだろう。
しかし身体への悪影響は軽視できない。
子供たちに大人気のファストフードが、その健康をじわじわと蝕んでいく……、
笑えない話だが、禍々しい実態がまたアメリカらしくて、強く好奇心をそそられた。
全編にフル登場する監督の存在感は非常にさわやか。
「俺の企画すごいだろ、見ろよ、金落としてけよ」的な下品さを感じさせない、
好感度の高い人物だ。
やばい、これ面白い……と、終始画面に引き込まれてしまった。
こんな作品を観てしまうと、
またつい、ドキュメンタリーに手が伸びてしまいそうだなぁ。
製作年:2004年
製作国:アメリカ
監督:モーガン・スパーロック
________________________
朝昼晩マクドナルドばっかり1ヶ月間食べ続けたら、
どうなるのかというドキュメンタリー。
前々から観ようとは思っていたんだけど、
ドキュメンタリーが面白いと困っちゃう……、
映画を観る気が失せてしまいそうで怖いのだ。
評価のポイントが違うといえばそれまでだし、
ドキュメンタリーとはいえ、監督がいる作品なのだから、
事実が歪曲されている可能性だってあるかもしれない。
それでも下手な映画人の妄想を映像化した作品より、
事実は奇なりな場合は、多々ありそうだ。
同じようなことが活字の世界にもあてはまり、文学はと~んとご無沙汰。
読むものといったら、やはりドキュメンタリー、
そしてエッセイ、評論ばかりという有様だ。
活劇のほうはそうならないように、バランスを取っていかないと……、
去年もBBCのドキュメントばっかり観ていた時期があったしなぁ。
ドキュメントのありがたみは、知的好奇心を充足させてくれるところにある。
ニュースのヘッドラインに登場するような目先の問題ではなく、
その背景にある前提、原因、温床などに光を当てたものほど面白く、
鑑賞後の満足感は大きい。
本作もおふざけで人体実験を行っているわけではなく、
アメリカ社会が抱える問題の、発端の一部はどうも食生活にありそうだぞ、
だからそこを暴いてやるぞ、という意思を貫いているところが素晴らしかった。
特に面白いエピソードが二つあった。
まず、科学的に分析すると、バーガーのパテの上に乗ったチーズからは、
モルヒネの成分が検出されるという。つまり軽度の中毒性があるのだ。
今回人体実験を自ら行った監督も、
食間には気分が落ち込み、食後には気分が高揚するという症状を呈している。
マクドナルドは、週一回の利用者を”ヘビーユーザー”とみなすらしいが、
どうしよう、僕も週末のランチに1回はマクドナルドの「ビッグマックセット」を
食べている気がするのだ。これはもう中毒だろうか。
もうひとつ。
マクドナルドなど、アメリカ人の食生活を侵食するジャンクフードは、
糖分と脂分の塊であり、のべつまもなく飲み食いしていたら、太らないはずはない。
事実”肥満”の2文字は大問題としてアメリカ社会を震撼させているのだが、
ジャンクフードの功罪は、どうもそれだけに留まらないようなのだ。
本作では、とある学校で校内から炭酸飲料の自動販売機を撤去したところ、
生徒たちの集中力が高まり、教室内での問題も減少したという事例が紹介されている。
そういえば僕も学生時代の夏休み、
うっかりどこにも外出しない日の夜中にフラフラと、炭酸飲料を買いに行ったっけ。
つまり、あの強烈なパンチ力と糖分は、一種の刺激剤なのである、くわばらくわばら。
マクドナルドを食べ続けて20日後に、監督の肝機能は著しく低下していた。
末期のアルコール中毒患者と同様の症状を呈していたのだ。
アルコールは市民生活に浸透している半面、
「危険」や「背徳」のイメージを色濃く併せ持ち、中毒患者は忌み嫌われるが、
ジャンクフード中毒なんて、一笑に付されるのがせいぜいだろう。
しかし身体への悪影響は軽視できない。
子供たちに大人気のファストフードが、その健康をじわじわと蝕んでいく……、
笑えない話だが、禍々しい実態がまたアメリカらしくて、強く好奇心をそそられた。
全編にフル登場する監督の存在感は非常にさわやか。
「俺の企画すごいだろ、見ろよ、金落としてけよ」的な下品さを感じさせない、
好感度の高い人物だ。
やばい、これ面白い……と、終始画面に引き込まれてしまった。
こんな作品を観てしまうと、
またつい、ドキュメンタリーに手が伸びてしまいそうだなぁ。
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原題:Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray
製作年:1962年
製作国:フランス
監督:セルジュ・ブールギニョン
出演;ハーディ・クルーガー、パトリシア・ゴッジ、
二コール・クールセル

__________________________________
所詮ロリコン映画である。
なんていったら、怒る人がいっぱいいるんだろうな~。
この映画に思い入れたっぷりなひと、かなり多いみたいなので。
じゃあなんて言えばいいのかしらん。
「運命的に巡り合い、慈しみあうふたつの魂が世の尺度で異常視され、
結果、悲劇的なラストがうんぬんかんぬんな純愛映画……」とか?
別にいいんじゃないの、ロリコン映画で。
例えば「ロリコン」を、
世の尺度で異常とされている他の性愛……「ゲイ」とか……
に置き換えてみれば、少し怒りも落ち着くと思うんだけど。
誤解のないように言っておくと、
この映画は30歳男性と12歳女性の関係を清廉潔白に描いている。
やましいところは何もない。
もし後続の作品があったとしたら、
本作は「ロリコン映画の古典」として、揺るぎない地位を獲得していただろう。
でも残念ながら、「ロリコン映画」はジャンルとして確立していない。
少女と成人男性の濡れ場は、男同士のそれ以上にタブーであり続けているのだ。
そう考えるとロリコンは気の毒である。
プライドの持ちようがないし、欲求を発散させる術もない。
傍から「異常だ」とか「気持ち悪い」とか言われても、
当事者にとって少女の純粋さこそは「至上の美」であり、
自分に嘘はつけないはずなのだ。
本作はロリコンをナイーヴに美しく、肯定的な側面から描いているので、
ロリコンの方、腐女子、そして
「純粋さ」「穢れなさ」「儚さ」に永遠の憧憬を抱いている方々にとって、
不朽の名作として愛され続けているようだ。
もちろん理解はできるんだけど、同調はできないなぁ。
僕は奇しくも同年にアメリカで公開された、
キューブリックの『ロリータ』の方がナンボか好きである。
あれだって最後は悲劇だけど、
少女の美に突き動かされて破滅していく成人男性の、
やるせなくも能動的な感じはよく描かれていたもの。
少なくとも自分と、まっすぐに向き合っている感じはしたのだ。
はたして、自分の性向が世に受け入れられなかったからといって、
それに気づかぬふりをして、
おめおめと殺されるのを待っていてよいものだろうか?
否。
生き残るためには頭を働かせて、愛を守らなければ駄目なのである。
大体この映画の主人公の少女、それほど純粋ではない。
一人前の女並みに媚を売るし、
「幸せになりたい、私だって幸せになれるはずだ」とか
悪あがきしちゃってさ。自分の境遇を受け入れていない。
幼さを装っているくせに、男を利用しようという意図が
ミエミエなので、例え不幸な境遇から生まれた処世術だと
割り引いて見ても、不快感を憶えるのだ。
これだって監督の演出のひとつだということも、
決して見逃してはいけないと思うのだが。
まぁ先述の通り、本作は「ロリコン映画の古典」に
なり損なっただけであって、作品自体に罪はない。
モノクロでどこか魔術的な雰囲気が漂う映像美も印象的なのだが、
なんだろう、やっぱり熱狂的なファンの方々の声が大きすぎて、
つい意地悪のひとつも言いたくなるんだよね。
製作年:1962年
製作国:フランス
監督:セルジュ・ブールギニョン
出演;ハーディ・クルーガー、パトリシア・ゴッジ、
二コール・クールセル
__________________________________
所詮ロリコン映画である。
なんていったら、怒る人がいっぱいいるんだろうな~。
この映画に思い入れたっぷりなひと、かなり多いみたいなので。
じゃあなんて言えばいいのかしらん。
「運命的に巡り合い、慈しみあうふたつの魂が世の尺度で異常視され、
結果、悲劇的なラストがうんぬんかんぬんな純愛映画……」とか?
別にいいんじゃないの、ロリコン映画で。
例えば「ロリコン」を、
世の尺度で異常とされている他の性愛……「ゲイ」とか……
に置き換えてみれば、少し怒りも落ち着くと思うんだけど。
誤解のないように言っておくと、
この映画は30歳男性と12歳女性の関係を清廉潔白に描いている。
やましいところは何もない。
もし後続の作品があったとしたら、
本作は「ロリコン映画の古典」として、揺るぎない地位を獲得していただろう。
でも残念ながら、「ロリコン映画」はジャンルとして確立していない。
少女と成人男性の濡れ場は、男同士のそれ以上にタブーであり続けているのだ。
そう考えるとロリコンは気の毒である。
プライドの持ちようがないし、欲求を発散させる術もない。
傍から「異常だ」とか「気持ち悪い」とか言われても、
当事者にとって少女の純粋さこそは「至上の美」であり、
自分に嘘はつけないはずなのだ。
本作はロリコンをナイーヴに美しく、肯定的な側面から描いているので、
ロリコンの方、腐女子、そして
「純粋さ」「穢れなさ」「儚さ」に永遠の憧憬を抱いている方々にとって、
不朽の名作として愛され続けているようだ。
もちろん理解はできるんだけど、同調はできないなぁ。
僕は奇しくも同年にアメリカで公開された、
キューブリックの『ロリータ』の方がナンボか好きである。
あれだって最後は悲劇だけど、
少女の美に突き動かされて破滅していく成人男性の、
やるせなくも能動的な感じはよく描かれていたもの。
少なくとも自分と、まっすぐに向き合っている感じはしたのだ。
はたして、自分の性向が世に受け入れられなかったからといって、
それに気づかぬふりをして、
おめおめと殺されるのを待っていてよいものだろうか?
否。
生き残るためには頭を働かせて、愛を守らなければ駄目なのである。
大体この映画の主人公の少女、それほど純粋ではない。
一人前の女並みに媚を売るし、
「幸せになりたい、私だって幸せになれるはずだ」とか
悪あがきしちゃってさ。自分の境遇を受け入れていない。
幼さを装っているくせに、男を利用しようという意図が
ミエミエなので、例え不幸な境遇から生まれた処世術だと
割り引いて見ても、不快感を憶えるのだ。
これだって監督の演出のひとつだということも、
決して見逃してはいけないと思うのだが。
まぁ先述の通り、本作は「ロリコン映画の古典」に
なり損なっただけであって、作品自体に罪はない。
モノクロでどこか魔術的な雰囲気が漂う映像美も印象的なのだが、
なんだろう、やっぱり熱狂的なファンの方々の声が大きすぎて、
つい意地悪のひとつも言いたくなるんだよね。
原題:COVER GIRL
製作年:1944年
製作国:アメリカ
監督:チャールズ・ヴィダー
出演:リタ・ヘイワース、ジーン・ケリー、フィル・シルヴァース、
オットー・クルーガー、イヴ・アーデン、シェリー・ウィンタース

________________________
リタ・ヘイワースといえば、40年代アメリカの、セックス・シンボルのひとり。
代表作としては、ノワール作品の『ギルダ』が筆頭に挙がると思うのだが、
今回この作品を観て驚いた。彼女、ものすごく踊れるのである。
この映画は立派なミュージカル映画で、共演は売り出し中のジーン・ケリー。
30年代の絢爛な作品に比べれば、セットもエキストラも小規模なものだが、
ステップの質はむしろ向上しているようで、
平たく言えば、昨日今日ダンスを始めた女優に踊れる類の振り付けではない。
足でむずかしいステップを刻みながら、上半身を優雅に動かす。
10秒に一回ぐらいはターンを決める。
もちろん、顔に満面の笑みを湛え続けていなくてはならないし、
階段を駆け上がったり、パートナーと丁々発止のやり取りを繰り広げたりと、
長回しの間には、息つく暇もなさそうだ。
作品中こうした見せ場がいくつもあるのだから、
相当入念にリハーサルをこなさなければ臨めないと思うが、
撮影期間もそう長くはないはず。
そこまで思いをめぐらせれば、誰にでもできる芸当でないことは
容易に想像がつくというものである。
アメリカ映画で、主演俳優陣が吹き替えスタントなしに
ハイレベルなダンスを披露する、という流れの発端には、
フレッド・アステアの存在がある。
パートナーとして有名なのはジンジャー・ロジャースだが、
彼女はアステアとのコンビに留まらず、
演技派女優としての活動も積極的に行った。
未見だがリタ・ヘイワースは、ジンジャーの返上で空位になった
アステアのパートナーの座を、2作も努めていたようである。
全く、踊れるどころの騒ぎではなかったというわけだ。
映画が娯楽の王様だった時代、
ハリウッドは俳優へ、かくも過酷な要求を突きつけていたのかと驚いてしまうが、
必ずしも皆が完璧だったわけではない。
フレッド・アステアは火星人のようにおでこが広くて、容姿は十人並み。
ディードリヒやガルボは神秘的なまでに美しかったが、
流暢に踊れたわけではない(ディードリヒは歌えたが)。
そう考えると、リタがいかに商品価値の高い女優であったかがわかる。
スター工場ハリウッドの、ヘアメイクシステムの力に拠るところも大きいとはいえ
(リタの場合、赤毛より上唇のオーバーリップラインが気になる)、
いまだ語り草となっている伝説の美人女優に、
さらなる引き出しがあったことは、僕にとってかなりの衝撃であった。
さまざまな現場で「潰しが利く」俳優は、それだけで尊敬を集めて当然なのだ。
こんな女優が存在していたという事実からも、
いかに当時のハリウッドに優秀な人材が集い、
しのぎを削っていたかがわかるというもの。
ゆるやかに下火となったミュージカル映画から、
タイミングよく犯罪映画へシフトして伝説となったリタの、
あまり語られることのないもうひとつの魅力が、
全編に輝きを放っている名作。女優好きは必見だ。
製作年:1944年
製作国:アメリカ
監督:チャールズ・ヴィダー
出演:リタ・ヘイワース、ジーン・ケリー、フィル・シルヴァース、
オットー・クルーガー、イヴ・アーデン、シェリー・ウィンタース
________________________
リタ・ヘイワースといえば、40年代アメリカの、セックス・シンボルのひとり。
代表作としては、ノワール作品の『ギルダ』が筆頭に挙がると思うのだが、
今回この作品を観て驚いた。彼女、ものすごく踊れるのである。
この映画は立派なミュージカル映画で、共演は売り出し中のジーン・ケリー。
30年代の絢爛な作品に比べれば、セットもエキストラも小規模なものだが、
ステップの質はむしろ向上しているようで、
平たく言えば、昨日今日ダンスを始めた女優に踊れる類の振り付けではない。
足でむずかしいステップを刻みながら、上半身を優雅に動かす。
10秒に一回ぐらいはターンを決める。
もちろん、顔に満面の笑みを湛え続けていなくてはならないし、
階段を駆け上がったり、パートナーと丁々発止のやり取りを繰り広げたりと、
長回しの間には、息つく暇もなさそうだ。
作品中こうした見せ場がいくつもあるのだから、
相当入念にリハーサルをこなさなければ臨めないと思うが、
撮影期間もそう長くはないはず。
そこまで思いをめぐらせれば、誰にでもできる芸当でないことは
容易に想像がつくというものである。
アメリカ映画で、主演俳優陣が吹き替えスタントなしに
ハイレベルなダンスを披露する、という流れの発端には、
フレッド・アステアの存在がある。
パートナーとして有名なのはジンジャー・ロジャースだが、
彼女はアステアとのコンビに留まらず、
演技派女優としての活動も積極的に行った。
未見だがリタ・ヘイワースは、ジンジャーの返上で空位になった
アステアのパートナーの座を、2作も努めていたようである。
全く、踊れるどころの騒ぎではなかったというわけだ。
映画が娯楽の王様だった時代、
ハリウッドは俳優へ、かくも過酷な要求を突きつけていたのかと驚いてしまうが、
必ずしも皆が完璧だったわけではない。
フレッド・アステアは火星人のようにおでこが広くて、容姿は十人並み。
ディードリヒやガルボは神秘的なまでに美しかったが、
流暢に踊れたわけではない(ディードリヒは歌えたが)。
そう考えると、リタがいかに商品価値の高い女優であったかがわかる。
スター工場ハリウッドの、ヘアメイクシステムの力に拠るところも大きいとはいえ
(リタの場合、赤毛より上唇のオーバーリップラインが気になる)、
いまだ語り草となっている伝説の美人女優に、
さらなる引き出しがあったことは、僕にとってかなりの衝撃であった。
さまざまな現場で「潰しが利く」俳優は、それだけで尊敬を集めて当然なのだ。
こんな女優が存在していたという事実からも、
いかに当時のハリウッドに優秀な人材が集い、
しのぎを削っていたかがわかるというもの。
ゆるやかに下火となったミュージカル映画から、
タイミングよく犯罪映画へシフトして伝説となったリタの、
あまり語られることのないもうひとつの魅力が、
全編に輝きを放っている名作。女優好きは必見だ。
原題:Pauline à la plage
製作年:1983年
製作国:フランス
監督/脚本:エリック・ロメール
出演:アリエル・ドンバール、パスカル・グレゴリー、
フェオドール・アドキン、アマンダ・ラングレ

________________________
今年の初めに亡くなった、エリック・ロメール監督の作品。
彼の作品を観るのはこれが初めてだが、
ヌーヴェルバーグの時代に台頭した監督のひとりらしい。
とはいえ、この作品が撮影されたのは80年代だし、
それ以降もコンスタントに映画を撮っていたということは、
安定した実力と人気を誇った監督だったのだろう。
こちらも、大げさなところは少しもないのに、非常に面白い作品だった。
テーマはズバリ「恋愛」。
「愛したい」女性と「愛されたい」男性と、
そのどちらにも食傷気味なのに、来る者は拒めない男性との間に生まれた
トライアングルな関係を軸に、ストーリーは展開していく。
相手を思いやる気持ちはありつつも、それぞれがエゴを存分に発揮し、
自分の意見を徹頭徹尾に口にしていくので、
コトはどんどん複雑になっていく。
口を挟んだら馬に蹴られそうな「人の恋路」を、
淡々とリアルに喜劇化しているので、
パリゴ達は鑑賞後、それぞれの恋愛観を披歴し合い、
議論に花を咲かせたに違いない。
現代にも通ずるシニシズムはしっかりと持ち合わせながら、
最終的に女性へやさしい視線を投げかけているのも、印象的だった。
また、ヒロインのひとりであるアリエル・ドンバールがすごくいい。
個人的には最近、歌手としての彼女がマイブームで、
アルバムをすべて揃えようという勢いなのだが、2010年現在で、御年は52歳。
美しいだけでなく、どこか妖怪じみたエロチシズムを漂わせているところが
素敵な女性だ。
この映画に出演した頃はまだ30代で、今よりもっと健康的な雰囲気だが、
それにしても、エキセントリックな灰汁だけはどうにも抜けきらない感じ。
そんな女性が、恋愛という普遍的な命題を前に手を焼いている感じがなんとも滑稽で、
ともすれば単調に陥りそうな場面の連続を、刺激的に見せてくれる。
特にまだ禿げていないパスカル・グレゴリーとのやり取りがおかしくて、
何度も高笑いしてしまった。特におかしい場面でもないはずなのにね。
ロメール監督との絡み以外では、いまひとつ作品に恵まれていないようだが、
女優としての彼女も大いに気になっているので、
これからどんどんチェックしていこうっと。
製作年:1983年
製作国:フランス
監督/脚本:エリック・ロメール
出演:アリエル・ドンバール、パスカル・グレゴリー、
フェオドール・アドキン、アマンダ・ラングレ
________________________
今年の初めに亡くなった、エリック・ロメール監督の作品。
彼の作品を観るのはこれが初めてだが、
ヌーヴェルバーグの時代に台頭した監督のひとりらしい。
とはいえ、この作品が撮影されたのは80年代だし、
それ以降もコンスタントに映画を撮っていたということは、
安定した実力と人気を誇った監督だったのだろう。
こちらも、大げさなところは少しもないのに、非常に面白い作品だった。
テーマはズバリ「恋愛」。
「愛したい」女性と「愛されたい」男性と、
そのどちらにも食傷気味なのに、来る者は拒めない男性との間に生まれた
トライアングルな関係を軸に、ストーリーは展開していく。
相手を思いやる気持ちはありつつも、それぞれがエゴを存分に発揮し、
自分の意見を徹頭徹尾に口にしていくので、
コトはどんどん複雑になっていく。
口を挟んだら馬に蹴られそうな「人の恋路」を、
淡々とリアルに喜劇化しているので、
パリゴ達は鑑賞後、それぞれの恋愛観を披歴し合い、
議論に花を咲かせたに違いない。
現代にも通ずるシニシズムはしっかりと持ち合わせながら、
最終的に女性へやさしい視線を投げかけているのも、印象的だった。
また、ヒロインのひとりであるアリエル・ドンバールがすごくいい。
個人的には最近、歌手としての彼女がマイブームで、
アルバムをすべて揃えようという勢いなのだが、2010年現在で、御年は52歳。
美しいだけでなく、どこか妖怪じみたエロチシズムを漂わせているところが
素敵な女性だ。
この映画に出演した頃はまだ30代で、今よりもっと健康的な雰囲気だが、
それにしても、エキセントリックな灰汁だけはどうにも抜けきらない感じ。
そんな女性が、恋愛という普遍的な命題を前に手を焼いている感じがなんとも滑稽で、
ともすれば単調に陥りそうな場面の連続を、刺激的に見せてくれる。
特にまだ禿げていないパスカル・グレゴリーとのやり取りがおかしくて、
何度も高笑いしてしまった。特におかしい場面でもないはずなのにね。
ロメール監督との絡み以外では、いまひとつ作品に恵まれていないようだが、
女優としての彼女も大いに気になっているので、
これからどんどんチェックしていこうっと。
原題:INSIDE DEEP THROAT
製作年:2005年
製作国:アメリカ
監督:フェントン・ベイリー、ランディ・バルバート
出演:ジェラルド・ダミアーノ、ハリー・リームス、リンダ・ラブレース、
ゴア・ヴィダル、ジョン・ウォーターズ、アンドレア・トゥルー

_____________________________
70年代前半のアメリカで、メガヒットを記録したポルノ映画『ディープスロート』。
本作は、このポルノ映画が巻き起こした社会現象を、
製作関係者や、当時の雰囲気をよく知る著名人の発言から振り返った
ドキュメンタリーフィルムである。
ということで、僕はまず『ディープ・スロート』本編を観てみた。
えげつなさという点では、現代のAVに太刀打ちできるはずもなく、
主演のリンダ・ラブレースが披露する、タイトル通りの「奥義」も、
特に目新しくは写らない。また、このポルノ映画は
「本来陰部にあるはずのクリトリスを、なぜか喉の奥に所有している主人公が、
”ディープスロート”することで真のエクスタシーに到達し、性の探求を終える」
という、荒唐無稽なストーリーの基に展開する。
その馬鹿馬鹿しさには呆れるを通り越し、思わず笑ってしまうが、
演技に関してド素人の出演者が繰り広げる芝居のまずさは、
どちらかというと悪い冗談の範囲内。
女優は皆ブスなばかりか、時代を感じさせるもっさりとしたヘアスタイルのせいで、
おばさんのようにも見える。
ポルノ映画の枠を超えるような普遍性を有する作品ではないし、
特別おしゃれな作品でもないのだ。
ではこのポルノがなぜ、社会現象を巻き起こすほどのヒットを記録したのか。
その経緯は、本作を観れば充分にわかることだから省くとして、
ひとつ考えさせられたことがある。
『ディープ・スロート』を監督したジェラルド・ダミアーノという人物の
「現代のポルノはただ性行為を写しているだけ。作品ではない。
そんなものは撮っても意味がない」という発言についてである。
ジェラルドは「セックスとは人間の営みであり、恥ずべきことではない」と考えていた。
この論理が飛躍すると「それを映像に収めるのも、自然」ということになる。
さらにジェラルドは当時「ハリウッドとポルノが歩み寄り、最終的には合体する」
と真剣に予測していたらしい。
それはつまりジェーン・フォンダとか、ラクウェル・ウェルチとか、
スティーブ・マックイーンとかが、
演技の合間に本番の濡れ場を披露するということと、イコールである。
「何を馬鹿な」と思うのは、結果を知る40年後ゆえの意見なのだろうか?
当時はこのような展望を後押しする追い風が、本当に吹いていたのだろうか?
2010年代を生きる僕は、ポルノに「抜く」以外の意味を求めていない。
下手なストーリーやまずい演技は感興を削ぐばかりだし、
逆に完成度が高くても、それはそれで興醒めな気がする。
他の作品との差異化を、なんとなく図る程度のグラデーションさえあればいい。
大体ポルノとは、人目を憚り、こっそりと楽しむからこそ、魅力的なのではないか?
と考えるうち、自分とジェラルドとの間に広がる大きな断絶に、はたと気付いた。
彼は、性を「暗闇でコソコソと楽しむもの」から、「太陽の下で謳歌するもの」に
変えられると思いたかった。つまり、タブーを取り払いたがった人間なのだ。
無謀、無邪気、後付けの自己正当化といってしまえばそれまでだが、
その「志」自体は、決して間違っていない。
むしろ脆いのは、自らの性生活とハードコア・ポルノを巧妙に分断し、
中途半端に許容する現代人のバランス感覚だということに、
図らずも気付かされたのだ。
性をめぐる問題とはかように複雑である。
ひとびとの意識を改革すべく行動することは、
それなりにエキサイティングでもあるだろう。
しかし見果てぬ理想は、次第に実人生を蝕んでゆく。
『ディープ・スロート』の関係者も然りで、監督はともかく、
さほどの覚悟を以て撮影に臨んだわけでもない出演者たちは、
予想をはるかに上回った成功により、その人生を狂わされていく。
そんな主演女優、リンダ・ラブレースの数奇な人生は、
リンジー・ローハン主演で、2011年に映画化されるらしい。
楽しみではあるが、思想もなく、流されるように生きた彼女の生涯を、
過度に美化した作品に仕上がらないことを祈るばかり。
製作年:2005年
製作国:アメリカ
監督:フェントン・ベイリー、ランディ・バルバート
出演:ジェラルド・ダミアーノ、ハリー・リームス、リンダ・ラブレース、
ゴア・ヴィダル、ジョン・ウォーターズ、アンドレア・トゥルー
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70年代前半のアメリカで、メガヒットを記録したポルノ映画『ディープスロート』。
本作は、このポルノ映画が巻き起こした社会現象を、
製作関係者や、当時の雰囲気をよく知る著名人の発言から振り返った
ドキュメンタリーフィルムである。
ということで、僕はまず『ディープ・スロート』本編を観てみた。
えげつなさという点では、現代のAVに太刀打ちできるはずもなく、
主演のリンダ・ラブレースが披露する、タイトル通りの「奥義」も、
特に目新しくは写らない。また、このポルノ映画は
「本来陰部にあるはずのクリトリスを、なぜか喉の奥に所有している主人公が、
”ディープスロート”することで真のエクスタシーに到達し、性の探求を終える」
という、荒唐無稽なストーリーの基に展開する。
その馬鹿馬鹿しさには呆れるを通り越し、思わず笑ってしまうが、
演技に関してド素人の出演者が繰り広げる芝居のまずさは、
どちらかというと悪い冗談の範囲内。
女優は皆ブスなばかりか、時代を感じさせるもっさりとしたヘアスタイルのせいで、
おばさんのようにも見える。
ポルノ映画の枠を超えるような普遍性を有する作品ではないし、
特別おしゃれな作品でもないのだ。
ではこのポルノがなぜ、社会現象を巻き起こすほどのヒットを記録したのか。
その経緯は、本作を観れば充分にわかることだから省くとして、
ひとつ考えさせられたことがある。
『ディープ・スロート』を監督したジェラルド・ダミアーノという人物の
「現代のポルノはただ性行為を写しているだけ。作品ではない。
そんなものは撮っても意味がない」という発言についてである。
ジェラルドは「セックスとは人間の営みであり、恥ずべきことではない」と考えていた。
この論理が飛躍すると「それを映像に収めるのも、自然」ということになる。
さらにジェラルドは当時「ハリウッドとポルノが歩み寄り、最終的には合体する」
と真剣に予測していたらしい。
それはつまりジェーン・フォンダとか、ラクウェル・ウェルチとか、
スティーブ・マックイーンとかが、
演技の合間に本番の濡れ場を披露するということと、イコールである。
「何を馬鹿な」と思うのは、結果を知る40年後ゆえの意見なのだろうか?
当時はこのような展望を後押しする追い風が、本当に吹いていたのだろうか?
2010年代を生きる僕は、ポルノに「抜く」以外の意味を求めていない。
下手なストーリーやまずい演技は感興を削ぐばかりだし、
逆に完成度が高くても、それはそれで興醒めな気がする。
他の作品との差異化を、なんとなく図る程度のグラデーションさえあればいい。
大体ポルノとは、人目を憚り、こっそりと楽しむからこそ、魅力的なのではないか?
と考えるうち、自分とジェラルドとの間に広がる大きな断絶に、はたと気付いた。
彼は、性を「暗闇でコソコソと楽しむもの」から、「太陽の下で謳歌するもの」に
変えられると思いたかった。つまり、タブーを取り払いたがった人間なのだ。
無謀、無邪気、後付けの自己正当化といってしまえばそれまでだが、
その「志」自体は、決して間違っていない。
むしろ脆いのは、自らの性生活とハードコア・ポルノを巧妙に分断し、
中途半端に許容する現代人のバランス感覚だということに、
図らずも気付かされたのだ。
性をめぐる問題とはかように複雑である。
ひとびとの意識を改革すべく行動することは、
それなりにエキサイティングでもあるだろう。
しかし見果てぬ理想は、次第に実人生を蝕んでゆく。
『ディープ・スロート』の関係者も然りで、監督はともかく、
さほどの覚悟を以て撮影に臨んだわけでもない出演者たちは、
予想をはるかに上回った成功により、その人生を狂わされていく。
そんな主演女優、リンダ・ラブレースの数奇な人生は、
リンジー・ローハン主演で、2011年に映画化されるらしい。
楽しみではあるが、思想もなく、流されるように生きた彼女の生涯を、
過度に美化した作品に仕上がらないことを祈るばかり。