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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。 同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
原題:Cybele ou les Dimanches de Ville d'Avray
製作年:1962年
製作国:フランス
監督:セルジュ・ブールギニョン
出演;ハーディ・クルーガー、パトリシア・ゴッジ、
二コール・クールセル

__________________________________
所詮ロリコン映画である。
なんていったら、怒る人がいっぱいいるんだろうな~。
この映画に思い入れたっぷりなひと、かなり多いみたいなので。
じゃあなんて言えばいいのかしらん。
「運命的に巡り合い、慈しみあうふたつの魂が世の尺度で異常視され、
結果、悲劇的なラストがうんぬんかんぬんな純愛映画……」とか?
別にいいんじゃないの、ロリコン映画で。
例えば「ロリコン」を、
世の尺度で異常とされている他の性愛……「ゲイ」とか……
に置き換えてみれば、少し怒りも落ち着くと思うんだけど。
誤解のないように言っておくと、
この映画は30歳男性と12歳女性の関係を清廉潔白に描いている。
やましいところは何もない。
もし後続の作品があったとしたら、
本作は「ロリコン映画の古典」として、揺るぎない地位を獲得していただろう。
でも残念ながら、「ロリコン映画」はジャンルとして確立していない。
少女と成人男性の濡れ場は、男同士のそれ以上にタブーであり続けているのだ。
そう考えるとロリコンは気の毒である。
プライドの持ちようがないし、欲求を発散させる術もない。
傍から「異常だ」とか「気持ち悪い」とか言われても、
当事者にとって少女の純粋さこそは「至上の美」であり、
自分に嘘はつけないはずなのだ。
本作はロリコンをナイーヴに美しく、肯定的な側面から描いているので、
ロリコンの方、腐女子、そして
「純粋さ」「穢れなさ」「儚さ」に永遠の憧憬を抱いている方々にとって、
不朽の名作として愛され続けているようだ。
もちろん理解はできるんだけど、同調はできないなぁ。
僕は奇しくも同年にアメリカで公開された、
キューブリックの『ロリータ』の方がナンボか好きである。
あれだって最後は悲劇だけど、
少女の美に突き動かされて破滅していく成人男性の、
やるせなくも能動的な感じはよく描かれていたもの。
少なくとも自分と、まっすぐに向き合っている感じはしたのだ。
はたして、自分の性向が世に受け入れられなかったからといって、
それに気づかぬふりをして、
おめおめと殺されるのを待っていてよいものだろうか?
否。
生き残るためには頭を働かせて、愛を守らなければ駄目なのである。
大体この映画の主人公の少女、それほど純粋ではない。
一人前の女並みに媚を売るし、
「幸せになりたい、私だって幸せになれるはずだ」とか
悪あがきしちゃってさ。自分の境遇を受け入れていない。
幼さを装っているくせに、男を利用しようという意図が
ミエミエなので、例え不幸な境遇から生まれた処世術だと
割り引いて見ても、不快感を憶えるのだ。
これだって監督の演出のひとつだということも、
決して見逃してはいけないと思うのだが。
まぁ先述の通り、本作は「ロリコン映画の古典」に
なり損なっただけであって、作品自体に罪はない。
モノクロでどこか魔術的な雰囲気が漂う映像美も印象的なのだが、
なんだろう、やっぱり熱狂的なファンの方々の声が大きすぎて、
つい意地悪のひとつも言いたくなるんだよね。
製作年:1962年
製作国:フランス
監督:セルジュ・ブールギニョン
出演;ハーディ・クルーガー、パトリシア・ゴッジ、
二コール・クールセル
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所詮ロリコン映画である。
なんていったら、怒る人がいっぱいいるんだろうな~。
この映画に思い入れたっぷりなひと、かなり多いみたいなので。
じゃあなんて言えばいいのかしらん。
「運命的に巡り合い、慈しみあうふたつの魂が世の尺度で異常視され、
結果、悲劇的なラストがうんぬんかんぬんな純愛映画……」とか?
別にいいんじゃないの、ロリコン映画で。
例えば「ロリコン」を、
世の尺度で異常とされている他の性愛……「ゲイ」とか……
に置き換えてみれば、少し怒りも落ち着くと思うんだけど。
誤解のないように言っておくと、
この映画は30歳男性と12歳女性の関係を清廉潔白に描いている。
やましいところは何もない。
もし後続の作品があったとしたら、
本作は「ロリコン映画の古典」として、揺るぎない地位を獲得していただろう。
でも残念ながら、「ロリコン映画」はジャンルとして確立していない。
少女と成人男性の濡れ場は、男同士のそれ以上にタブーであり続けているのだ。
そう考えるとロリコンは気の毒である。
プライドの持ちようがないし、欲求を発散させる術もない。
傍から「異常だ」とか「気持ち悪い」とか言われても、
当事者にとって少女の純粋さこそは「至上の美」であり、
自分に嘘はつけないはずなのだ。
本作はロリコンをナイーヴに美しく、肯定的な側面から描いているので、
ロリコンの方、腐女子、そして
「純粋さ」「穢れなさ」「儚さ」に永遠の憧憬を抱いている方々にとって、
不朽の名作として愛され続けているようだ。
もちろん理解はできるんだけど、同調はできないなぁ。
僕は奇しくも同年にアメリカで公開された、
キューブリックの『ロリータ』の方がナンボか好きである。
あれだって最後は悲劇だけど、
少女の美に突き動かされて破滅していく成人男性の、
やるせなくも能動的な感じはよく描かれていたもの。
少なくとも自分と、まっすぐに向き合っている感じはしたのだ。
はたして、自分の性向が世に受け入れられなかったからといって、
それに気づかぬふりをして、
おめおめと殺されるのを待っていてよいものだろうか?
否。
生き残るためには頭を働かせて、愛を守らなければ駄目なのである。
大体この映画の主人公の少女、それほど純粋ではない。
一人前の女並みに媚を売るし、
「幸せになりたい、私だって幸せになれるはずだ」とか
悪あがきしちゃってさ。自分の境遇を受け入れていない。
幼さを装っているくせに、男を利用しようという意図が
ミエミエなので、例え不幸な境遇から生まれた処世術だと
割り引いて見ても、不快感を憶えるのだ。
これだって監督の演出のひとつだということも、
決して見逃してはいけないと思うのだが。
まぁ先述の通り、本作は「ロリコン映画の古典」に
なり損なっただけであって、作品自体に罪はない。
モノクロでどこか魔術的な雰囲気が漂う映像美も印象的なのだが、
なんだろう、やっぱり熱狂的なファンの方々の声が大きすぎて、
つい意地悪のひとつも言いたくなるんだよね。
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