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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。 同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
原題:THE TIMES OF HARVEY MILK
製作年:1984年
製作国:アメリカ
監督:ロバート・エプスタイン

________________________
先日、東京都知事の石原慎太郎があからさまなゲイ差別発言をしたことが、
ネットニュースで配信された。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20101208ddm041010103000c.html
これを受け、怒りを表明するゲイの発言が、これまたネット上に数多く噴出した。
一般のゲイ・ピープルによる憤怒を、数多く目にする機会があったのは、
僕自身がゲイだから。
SNSなどで繋がっている人たちの大半をゲイ・ピープルが占めているため、
彼らの生の声を、他の人よりも多く目にすることができたというわけだ。
なんて客観的態度を見せびらかしていると、
「じゃあアンタはどう思っているんだ」と問い質されそうなので、率直に言おう。
僕は「よくぞ言ってくれたなぁ」と感心している。
発言内容には全く同意できないが、その行動自体にわずかな感謝の念すら抱いている。
全く今の日本のゲイは、平和ボケなのである。
脳味噌まで筋肉質な体育会系の男性や、
ネット上で人種差別的な発言を繰り返す愚かな輩の中には、
ゲイに対する露骨な拒否感を示す人もいる。
しかし女性や若い世代の男性は、ゲイに対して概ね好意的である。
東京や大阪などの大都市には、ゲイ同士が出会える場所が数多いうえに、
ネット上にも男女間よりずっと安全な出会いシステムが用意され、
全国レベルでの浸透を見せている。
「ゲイは出会いが少ないし、差別されていて可哀想」なんて、とんでもない。
みんなそれほど大きなプレッシャーも感じず、毎日を楽しく、贅沢に生きているのだ。
しかし日本にもゲイ差別はある。
アメリカのようにあからさまで、暴力的な弾圧ではない。
存在を認めてそれを潰しにかかるのではなく、「無視」という方法で黙殺するのだ。
自分とは無縁な問題に関わることを、
極力回避しようとする国民性に、ふさわしいやり方である。
こうした態度が目に見えないところで、
数多くのひずみを生じさせているのは、間違いないだろう。
そして残念ながら当事者のゲイにも、その国民性は十二分に備わっている。
自らのセクシュアリティを明示するより、
可能なところまで隠し通そうとする生き方が、一般的なのだ。
個人的な話になるが、僕は両親から職場の人間にまで、
自らのセクシュアリティをカムアウトしている。
そうした生き方を選ぶことで失ったチャンスも、数多くあることは確かなのだが、
幸か不幸か「仮面をかぶったままの人生に意味はない」と、迷いなく信じられる。
だが同じ生き方を、他のゲイに強要する考えは、とうの昔に捨てた。
また新宿二丁目を中心とするゲイ社会を、
もっと活性化させたいという思いも、かなり前に失った。
僕や志を同じくするゲイが頑張ったところで、
大多数のゲイに檻から出ようとする意思がない限り、虚しい努力にしかならない。
日本のゲイが最優先するのは、同性との恋愛やセックス。
ゲイとしてのアイデンテティ、ライフスタイル確立は二の次である。
だから僕も、色々考えるのはやめてしまった。
例えば「ゲイの婚姻制度を構築する闘争」に一生を捧げるより、
いま享受できるものを享受して、楽しく生きることを選んだのだ。
まとめよう。
今の日本のゲイは、弾圧を受けていない代わりに、明確な実体がない。
消費者層として認知されていないのは、
資本主義社会の中の存在として、致命的でもある。
そうした日本のゲイに、石原慎太郎の発言が冷水のように浴びせかけられたのだ。
何だか僕は「俺に認めさせてみろ」と言われたような気がした。
社会での曖昧な立ち位置に甘んじている
日本のゲイに向けた、挑発のようにも感じられたのだ。
矛盾する話だが、バラバラだったマイノリティがひとつにまとまり、
権利を主張していくためには、「仮想敵」の存在が必要不可欠である。
それはこの『ハーヴェイ・ミルク』を見れば、はっきりとわかる。
宗教や道徳を盾に、
あらゆる方向からマイノリティを弾圧しようとする社会や政治家があってはじめて、
抑圧を原動力とした、抵抗の大きなうねりが生まれていく。
僕には資格がないのかもしれないが、鑑賞中何度も涙が溢れ出て止まらなかった。
この場所に参加して、史上初のオープンゲイ政治家、
ハーヴェイの力になれたなら、どんなによかっただろうと思った。
そしてふと石原慎太郎が、日本のゲイに対して「仮想敵」としての役割を
引き受けたがっているように思えてきたのだ。
実は彼のゲイに対するアンチ発言は、これまでにも枚挙の暇がない。
黙殺すれば済むものに、なぜ執拗に絡むのか、不思議に感じられるほどなのだ。
彼自身の2人の息子や、国民的人気を誇った俳優の弟がゲイであるという噂は、
公然の事実のように根強く存在している。
もしかしたら、石原慎太郎が抱くゲイへの深い愛憎は、
我々の想像をはるかに凌駕しているのかもしれない。
製作年:1984年
製作国:アメリカ
監督:ロバート・エプスタイン
________________________
先日、東京都知事の石原慎太郎があからさまなゲイ差別発言をしたことが、
ネットニュースで配信された。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20101208ddm041010103000c.html
これを受け、怒りを表明するゲイの発言が、これまたネット上に数多く噴出した。
一般のゲイ・ピープルによる憤怒を、数多く目にする機会があったのは、
僕自身がゲイだから。
SNSなどで繋がっている人たちの大半をゲイ・ピープルが占めているため、
彼らの生の声を、他の人よりも多く目にすることができたというわけだ。
なんて客観的態度を見せびらかしていると、
「じゃあアンタはどう思っているんだ」と問い質されそうなので、率直に言おう。
僕は「よくぞ言ってくれたなぁ」と感心している。
発言内容には全く同意できないが、その行動自体にわずかな感謝の念すら抱いている。
全く今の日本のゲイは、平和ボケなのである。
脳味噌まで筋肉質な体育会系の男性や、
ネット上で人種差別的な発言を繰り返す愚かな輩の中には、
ゲイに対する露骨な拒否感を示す人もいる。
しかし女性や若い世代の男性は、ゲイに対して概ね好意的である。
東京や大阪などの大都市には、ゲイ同士が出会える場所が数多いうえに、
ネット上にも男女間よりずっと安全な出会いシステムが用意され、
全国レベルでの浸透を見せている。
「ゲイは出会いが少ないし、差別されていて可哀想」なんて、とんでもない。
みんなそれほど大きなプレッシャーも感じず、毎日を楽しく、贅沢に生きているのだ。
しかし日本にもゲイ差別はある。
アメリカのようにあからさまで、暴力的な弾圧ではない。
存在を認めてそれを潰しにかかるのではなく、「無視」という方法で黙殺するのだ。
自分とは無縁な問題に関わることを、
極力回避しようとする国民性に、ふさわしいやり方である。
こうした態度が目に見えないところで、
数多くのひずみを生じさせているのは、間違いないだろう。
そして残念ながら当事者のゲイにも、その国民性は十二分に備わっている。
自らのセクシュアリティを明示するより、
可能なところまで隠し通そうとする生き方が、一般的なのだ。
個人的な話になるが、僕は両親から職場の人間にまで、
自らのセクシュアリティをカムアウトしている。
そうした生き方を選ぶことで失ったチャンスも、数多くあることは確かなのだが、
幸か不幸か「仮面をかぶったままの人生に意味はない」と、迷いなく信じられる。
だが同じ生き方を、他のゲイに強要する考えは、とうの昔に捨てた。
また新宿二丁目を中心とするゲイ社会を、
もっと活性化させたいという思いも、かなり前に失った。
僕や志を同じくするゲイが頑張ったところで、
大多数のゲイに檻から出ようとする意思がない限り、虚しい努力にしかならない。
日本のゲイが最優先するのは、同性との恋愛やセックス。
ゲイとしてのアイデンテティ、ライフスタイル確立は二の次である。
だから僕も、色々考えるのはやめてしまった。
例えば「ゲイの婚姻制度を構築する闘争」に一生を捧げるより、
いま享受できるものを享受して、楽しく生きることを選んだのだ。
まとめよう。
今の日本のゲイは、弾圧を受けていない代わりに、明確な実体がない。
消費者層として認知されていないのは、
資本主義社会の中の存在として、致命的でもある。
そうした日本のゲイに、石原慎太郎の発言が冷水のように浴びせかけられたのだ。
何だか僕は「俺に認めさせてみろ」と言われたような気がした。
社会での曖昧な立ち位置に甘んじている
日本のゲイに向けた、挑発のようにも感じられたのだ。
矛盾する話だが、バラバラだったマイノリティがひとつにまとまり、
権利を主張していくためには、「仮想敵」の存在が必要不可欠である。
それはこの『ハーヴェイ・ミルク』を見れば、はっきりとわかる。
宗教や道徳を盾に、
あらゆる方向からマイノリティを弾圧しようとする社会や政治家があってはじめて、
抑圧を原動力とした、抵抗の大きなうねりが生まれていく。
僕には資格がないのかもしれないが、鑑賞中何度も涙が溢れ出て止まらなかった。
この場所に参加して、史上初のオープンゲイ政治家、
ハーヴェイの力になれたなら、どんなによかっただろうと思った。
そしてふと石原慎太郎が、日本のゲイに対して「仮想敵」としての役割を
引き受けたがっているように思えてきたのだ。
実は彼のゲイに対するアンチ発言は、これまでにも枚挙の暇がない。
黙殺すれば済むものに、なぜ執拗に絡むのか、不思議に感じられるほどなのだ。
彼自身の2人の息子や、国民的人気を誇った俳優の弟がゲイであるという噂は、
公然の事実のように根強く存在している。
もしかしたら、石原慎太郎が抱くゲイへの深い愛憎は、
我々の想像をはるかに凌駕しているのかもしれない。
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原題:SENSO
製作年:1954年
製作国:イタリア
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
出演:アリダ・ヴァリ、ファーリー・クレンジャー、
マッシモ・ジロッティ、ハインツ・モーク、マルチェッラ・マリアーニ

_________________
先日区役所から「口座の一部を凍結した」という空恐ろしい連絡が入った。
住民税をなかなか納めなかったのが悪いのだが、たかだか数万円で
個人情報の領域を侵してくるなんて、何だか気分悪~い。
大体1年に10万円以上もの金額を押収しておいて、
いったい区民に何をしてくれてるわけ?
と腹が立ったので、区の施設はできるだけ利用し、しゃぶりつくしてやろうと息巻いて、
区立図書館に赴いた。そしたら意外に使えるのね。
書籍はもちろんのこと、結構映像ソフトがあって、レンタルがみんなタダ。
ここ数ヶ月のうちに、レンタル屋でお金を払って借りたソフトを何本も発見して、
ますます腹が立ってきた。
幸い僕のように古典にも興味がある人間にとっては、
まだまだ手に取ろうと思う作品も数多い品揃えだったので、
ここしばらくはこの図書館から鑑賞作を選んでやろうと、密かに決心。
DVDに比べ、競争率の低いVCTが幅を利かせているのも好都合。
ということで手に取ったのがこの作品なのでありました。
ヴィスコンティといえばやはり、後期の作品の評価が高い。
僕がこれまでに観て来たところでは『ベニスに死す』『地獄に堕ちた勇者ども』
『家族の肖像』があるのだが、確かにものすごい見応えだった。
でもこの人の作品は、何より絢爛なデティールがすごすぎて、
どうも鑑賞にあたり教養を強要されている(←つまんないダジャレ)ような
圧迫を感じるのも確か。
やれ「全編にブルックナーの『第七交響曲』が使用され...」とかのたまわれると、
そこにも何か意味を求めなければ、
彼の意図するところを完全に掴めないのではないかという
不安がつきまとい、つい「また今度にしよっと」と敬遠してしまいがちなのだ。
「でも、タダで見れるなら...」と手を伸ばしてしまったのが僕の情けなさなのだが、
こればっかりは借りてよかった。やっぱ映画を観た、って感じがすごくしたのだ。
ストーリーは、いかにもオカマ好きがしそうな狂恋もののメロドラマで、
アリダ・ヴァリの取り乱し振りが見事なのだが、
それ以上に、崩壊の一途を辿るヴェネツィア共和国の、
上流階級における風俗の爛熟ぶりとか、
政情不安定な社会を取り繕う常識の狭間でうごめく情念とか、
いったいどれだけの自然を破壊しているの、と問い質したくなる迫力の戦闘シーンとか、
ひとつの画面に可能な限り精巧に詰め込まれた情報量の多さは、ただただ圧巻。
中期の作品は観なくてもいいか、なんてとんでもなくて、
やっぱりここまでの執念で映画を撮っているひとって、
全然いないのではと思わされてしまいました。
ちょっと税金取り戻した気分!
製作年:1954年
製作国:イタリア
監督:ルキノ・ヴィスコンティ
出演:アリダ・ヴァリ、ファーリー・クレンジャー、
マッシモ・ジロッティ、ハインツ・モーク、マルチェッラ・マリアーニ
_________________
先日区役所から「口座の一部を凍結した」という空恐ろしい連絡が入った。
住民税をなかなか納めなかったのが悪いのだが、たかだか数万円で
個人情報の領域を侵してくるなんて、何だか気分悪~い。
大体1年に10万円以上もの金額を押収しておいて、
いったい区民に何をしてくれてるわけ?
と腹が立ったので、区の施設はできるだけ利用し、しゃぶりつくしてやろうと息巻いて、
区立図書館に赴いた。そしたら意外に使えるのね。
書籍はもちろんのこと、結構映像ソフトがあって、レンタルがみんなタダ。
ここ数ヶ月のうちに、レンタル屋でお金を払って借りたソフトを何本も発見して、
ますます腹が立ってきた。
幸い僕のように古典にも興味がある人間にとっては、
まだまだ手に取ろうと思う作品も数多い品揃えだったので、
ここしばらくはこの図書館から鑑賞作を選んでやろうと、密かに決心。
DVDに比べ、競争率の低いVCTが幅を利かせているのも好都合。
ということで手に取ったのがこの作品なのでありました。
ヴィスコンティといえばやはり、後期の作品の評価が高い。
僕がこれまでに観て来たところでは『ベニスに死す』『地獄に堕ちた勇者ども』
『家族の肖像』があるのだが、確かにものすごい見応えだった。
でもこの人の作品は、何より絢爛なデティールがすごすぎて、
どうも鑑賞にあたり教養を強要されている(←つまんないダジャレ)ような
圧迫を感じるのも確か。
やれ「全編にブルックナーの『第七交響曲』が使用され...」とかのたまわれると、
そこにも何か意味を求めなければ、
彼の意図するところを完全に掴めないのではないかという
不安がつきまとい、つい「また今度にしよっと」と敬遠してしまいがちなのだ。
「でも、タダで見れるなら...」と手を伸ばしてしまったのが僕の情けなさなのだが、
こればっかりは借りてよかった。やっぱ映画を観た、って感じがすごくしたのだ。
ストーリーは、いかにもオカマ好きがしそうな狂恋もののメロドラマで、
アリダ・ヴァリの取り乱し振りが見事なのだが、
それ以上に、崩壊の一途を辿るヴェネツィア共和国の、
上流階級における風俗の爛熟ぶりとか、
政情不安定な社会を取り繕う常識の狭間でうごめく情念とか、
いったいどれだけの自然を破壊しているの、と問い質したくなる迫力の戦闘シーンとか、
ひとつの画面に可能な限り精巧に詰め込まれた情報量の多さは、ただただ圧巻。
中期の作品は観なくてもいいか、なんてとんでもなくて、
やっぱりここまでの執念で映画を撮っているひとって、
全然いないのではと思わされてしまいました。
ちょっと税金取り戻した気分!
原題:THE WRESTLER
製作年:2008年
製作国:アメリカ/フランス
監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ミッキー・ローク、マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド、
マーク・マーゴリス

_________________
資本主義国における現代社会では、職業による差別が、表面上ないことになっている。
しかし堅実な生き方に逆らいつつ、社会/経済的なリスペクトを勝ち得るには、
相当な運、才能、そして努力が必要だ。
また、一度手にした成功をキープし続けるのも、容易ではない。
僕は個人的にプロレスが好き。特に女子プロレスが好きだ。
日本の女子プロレスは、世界最高峰の技術レベルを誇る。
現在タレントとして活躍している北斗晶が現役だった15年前には、
東京ドームなどの大会場でも興行が行われていた。
しかしジャンル自体の人気が下降した現在は、
この映画と同じように、一部の熱心なファンだけが集まる
小規模な大会を繰り返すにとどまっている。
大会場でメインを張った過去を引き摺りながら、
レスラーとして生き永らえているミッキー・ロークの姿が、
アジャ・コングや、豊田真奈美、そして井上京子の現在の姿とダブって見えた。
「なぜリングに上がるんだろう?、昔の勇姿が台無しになるのに」
と思わないでもないが、特殊な世界で成功を収めてしまった人間は、
一般社会に居場所を見つけることができない。
職業経験が足りな過ぎるし、自尊心も高いからだ。
現在は医師と結婚し、タレントとして人気のジャガー横田も、
現役を退いた後(現在は復帰)、スポーツ洋品店や清掃会社を転々としたという。
無力な自分自身を受け入れ、ゼロから再スタートを切ることの難しさは相当なものだが、
ドラマティックであることだけは確かで、映画には格好の題材。
芸能界を事実上引退し、ボクサーとして生計を立てていたこともあるという
ミッキー・ロークにとっては、復帰作としてこのうえない作品であろう
(80年代末の日本で、同じように大人気だったジョン・ローンは今、どうしているのかしら...)。
この映画が日本で封切りになった際、現役レスラーをプロモに引っ張り出したり、
チラシにコメントを寄せさせたりする動きが全くなかったので、
ある程度予想はしていたのだが、この映画、
プロレスを完全にショウとして描ききっている。
選手同士が楽屋で事前打ち合わせをするシーンが何度も登場するのだ。
プロレスが八百長か否かという議論に参加する気はないのだが、
ひとついえるのは、日本のプロレスとアメリカのプロレスは全く別物であるということ。
リング上での闘いに求められているものに、差があり過ぎる。
アメリカ人は大きく派手な動きや、わかりやすい闘いに熱狂する。
単純といえばそれまでだが、反応もダイレクトだ。
日本人はといえば勝負の真剣さに執拗にこだわり、
地味な動きでも懸命に理解しようと努める。
その代わり反応は鈍く、来日した外国人レスラーは、
時に会場の静けさに戸惑うこともあるという。
しかし一つひとつの技にあれだけ反応し、
ベビーフェイスの勝利に大歓声を上げるアメリカ人相手に、
こんな映画を作っていいものなのだろうか。
ショーであるとすべてわかった上で、
リング上の闘いにあれほど興奮できるものなのか?
もしそうなら、アメリカ人のバランス感覚って奇妙だと思わざるを得ないが、
近年、日本でも「ハッスル」は大人気だったしねぇ。
とにかくこの映画で、レスラーはひたすら自分自身と闘うのみなのである。
デティールでおかしかったのは、主人公がハードロックの終焉を嘆いていること。
80年代末はガンズ&ローゼスを筆頭としたハードロックバンドが大人気だったのだが、
「ニルヴァーナの登場で、すべてぶち壊しになった。90年代は嫌いだ」、とぼやく。
しかし90年代のロックにとってもっと深刻だったのはヒップホップの一般化で、
オルタナティヴの影ですら薄くなったのは周知の事実。
白人のティーンエイジャーですら、ロックを省みなくなった時代なのだ。
日本の40~50代にも、こうした「80年代の忘れ者」はわんさかいるんだろうなぁ。
製作年:2008年
製作国:アメリカ/フランス
監督:ダーレン・アロノフスキー
出演:ミッキー・ローク、マリサ・トメイ、エヴァン・レイチェル・ウッド、
マーク・マーゴリス
_________________
資本主義国における現代社会では、職業による差別が、表面上ないことになっている。
しかし堅実な生き方に逆らいつつ、社会/経済的なリスペクトを勝ち得るには、
相当な運、才能、そして努力が必要だ。
また、一度手にした成功をキープし続けるのも、容易ではない。
僕は個人的にプロレスが好き。特に女子プロレスが好きだ。
日本の女子プロレスは、世界最高峰の技術レベルを誇る。
現在タレントとして活躍している北斗晶が現役だった15年前には、
東京ドームなどの大会場でも興行が行われていた。
しかしジャンル自体の人気が下降した現在は、
この映画と同じように、一部の熱心なファンだけが集まる
小規模な大会を繰り返すにとどまっている。
大会場でメインを張った過去を引き摺りながら、
レスラーとして生き永らえているミッキー・ロークの姿が、
アジャ・コングや、豊田真奈美、そして井上京子の現在の姿とダブって見えた。
「なぜリングに上がるんだろう?、昔の勇姿が台無しになるのに」
と思わないでもないが、特殊な世界で成功を収めてしまった人間は、
一般社会に居場所を見つけることができない。
職業経験が足りな過ぎるし、自尊心も高いからだ。
現在は医師と結婚し、タレントとして人気のジャガー横田も、
現役を退いた後(現在は復帰)、スポーツ洋品店や清掃会社を転々としたという。
無力な自分自身を受け入れ、ゼロから再スタートを切ることの難しさは相当なものだが、
ドラマティックであることだけは確かで、映画には格好の題材。
芸能界を事実上引退し、ボクサーとして生計を立てていたこともあるという
ミッキー・ロークにとっては、復帰作としてこのうえない作品であろう
(80年代末の日本で、同じように大人気だったジョン・ローンは今、どうしているのかしら...)。
この映画が日本で封切りになった際、現役レスラーをプロモに引っ張り出したり、
チラシにコメントを寄せさせたりする動きが全くなかったので、
ある程度予想はしていたのだが、この映画、
プロレスを完全にショウとして描ききっている。
選手同士が楽屋で事前打ち合わせをするシーンが何度も登場するのだ。
プロレスが八百長か否かという議論に参加する気はないのだが、
ひとついえるのは、日本のプロレスとアメリカのプロレスは全く別物であるということ。
リング上での闘いに求められているものに、差があり過ぎる。
アメリカ人は大きく派手な動きや、わかりやすい闘いに熱狂する。
単純といえばそれまでだが、反応もダイレクトだ。
日本人はといえば勝負の真剣さに執拗にこだわり、
地味な動きでも懸命に理解しようと努める。
その代わり反応は鈍く、来日した外国人レスラーは、
時に会場の静けさに戸惑うこともあるという。
しかし一つひとつの技にあれだけ反応し、
ベビーフェイスの勝利に大歓声を上げるアメリカ人相手に、
こんな映画を作っていいものなのだろうか。
ショーであるとすべてわかった上で、
リング上の闘いにあれほど興奮できるものなのか?
もしそうなら、アメリカ人のバランス感覚って奇妙だと思わざるを得ないが、
近年、日本でも「ハッスル」は大人気だったしねぇ。
とにかくこの映画で、レスラーはひたすら自分自身と闘うのみなのである。
デティールでおかしかったのは、主人公がハードロックの終焉を嘆いていること。
80年代末はガンズ&ローゼスを筆頭としたハードロックバンドが大人気だったのだが、
「ニルヴァーナの登場で、すべてぶち壊しになった。90年代は嫌いだ」、とぼやく。
しかし90年代のロックにとってもっと深刻だったのはヒップホップの一般化で、
オルタナティヴの影ですら薄くなったのは周知の事実。
白人のティーンエイジャーですら、ロックを省みなくなった時代なのだ。
日本の40~50代にも、こうした「80年代の忘れ者」はわんさかいるんだろうなぁ。
原題:PURPLE RAIN
製作年:1984年
製作国:アメリカ
監督:アルバート・マグノーリ
出演:プリンス、アポロニア・コテロ、モリス・デイ

_________________
最近は新作を出しても殆ど話題にならないプリンス。
80年代は、死んでから途方もなく再評価されているマイケル、そしてマドンナとで、
アメリカンポップス界の人気を3分していた。
所詮アイドル映画なので、内容はとやかくいう以前の問題。
鑑賞は主に個人的な理由からだ。
プリンスの魅力って、わかるようでわからないのである。
僕は無類のポップ・ミュージック好きなのだが、
近年遅まきながら、ソウル・ミュージックを楽しめるようになり、
また世界がグッと広がった。以前は苦手だったのである。
しかしプリンスはソウル史全体の中でも、特異な存在感を放っている。
ソウルミュージックの基本を、メキシカン・タコスの味に例えると
(おかしな例えである。あくまで僕の感覚での例えと思っていただければ幸い)、
プリンスの音楽は、その上に生クリームを乗せてきたような
違和を感じさせることがあって、非常に理解しにくいのだ。
またもうひとつ理由がある。
これも個人的なことなのだが、僕は男性ヴォーカルが苦手という偏聴癖の持主なのだ。
そこで「音はプリンスが作っていて、ヴォーカルが女性という体裁のものはないかしら」
と探してみた。
するとあるんですね、シーラEとか、
本作に出演しているアポロニア率いるアポロニア6とか。
チャカ・カーンの名曲『Feel 4 you』なんかもプリンスの作品だし、
比較的新しめのところではモニー・ラブの『BORN 2 B.R.E.E.D.』にも絡んでいる。
ペイズリー・パーク絡みも含むとすれば、元ミッシング・パーソンズのデイルのソロにも
プリンスサウンドの片鱗は感じられる(かなり薄味なんだけど)。
ここらへんは好き、っていうかかなりイイ!
これで少なくとも「プリンスが作る音は好き」ということはわかった。
そしてこの映画を観賞するに至り、もうひとつ理解できたことがある。
プリンスが非常にチャーミングな男である、という事実。
思ったより全然小柄であった。
幼少の頃マリリン・モンローの写真をみて「女装?」と思ったことがあるのだが、
写真には実在のスケールを飛び越えて、嘘を突き通す力がある。
見る者を圧倒するような、肥大化したイメージを提示することが可能なのだ。
アメリカに住んでいれば日常的に歌い踊るプリンスの姿を
目にすることもできたはずだが、
日本だとファンでない限り、
写真を見るだけでもうお腹いっぱいになるようないでたちである。
しかし出っ張った頬骨、モジャモジャしたもみあげが
どアップになったクローズショットだけで彼の魅力を判断したのは、大きな誤りであった。
加えてこの映画でも充分に堪能できる、ステージ上でのショーマンシップの高さ。
ライブで毎回あんなテンションだったら、人気が出て当たり前だ。
この映画のサントラ的な役割も果たしている大ヒットアルバム『パープルレイン』は、
かなり大衆向けということもあり、僕も所有しているが、
いま一度他の作品にもトライしてみようと思う次第であった。
余談だが、前述のアポロニア6はかなり好き。
コルセット姿で男を挑発するというアプローチで
キワモノ路線をひた走ったグループだ。
プロデュースはもちろん、プリンス。

現在のR&B界でもこうしたビアッチ路線は健在だが、
当時はまだまだ「やらされている」感が濃厚に漂っており、公開SMぽくて笑える。
実は前身にヴァニティ6というガールグループがあり、
フロントのヴァニティは本作でプリンスの相手役を務める予定だったのだが、
撮影中に降板したらしい。
トップレスシーンがあるので、いい加減堪えられなくなったのかも……。
ヴァニティ→アポロニアとフロントは替わったのだが、
バックの2人はそのままというグループ構成にも、一抹の哀愁が漂っている。
しかしこの2人が、結構キャラ立ちしているのだ。
”スーザン”がロリータ路線で、
”ブレンダ”が哀しいほどの蓮っ葉路線。
ソウル界ではその後もアン・ヴォーグからデスチャまで様々な
ガールグループが登場したが、
ブレンダのようなスポイルキャラは、類を見ない。
本作でもクチャクチャガムを噛みながら歌い踊るブレンダの勇姿(?)が
確認できるので、物好きな方はチェックしてみて欲しい。
製作年:1984年
製作国:アメリカ
監督:アルバート・マグノーリ
出演:プリンス、アポロニア・コテロ、モリス・デイ
_________________
最近は新作を出しても殆ど話題にならないプリンス。
80年代は、死んでから途方もなく再評価されているマイケル、そしてマドンナとで、
アメリカンポップス界の人気を3分していた。
所詮アイドル映画なので、内容はとやかくいう以前の問題。
鑑賞は主に個人的な理由からだ。
プリンスの魅力って、わかるようでわからないのである。
僕は無類のポップ・ミュージック好きなのだが、
近年遅まきながら、ソウル・ミュージックを楽しめるようになり、
また世界がグッと広がった。以前は苦手だったのである。
しかしプリンスはソウル史全体の中でも、特異な存在感を放っている。
ソウルミュージックの基本を、メキシカン・タコスの味に例えると
(おかしな例えである。あくまで僕の感覚での例えと思っていただければ幸い)、
プリンスの音楽は、その上に生クリームを乗せてきたような
違和を感じさせることがあって、非常に理解しにくいのだ。
またもうひとつ理由がある。
これも個人的なことなのだが、僕は男性ヴォーカルが苦手という偏聴癖の持主なのだ。
そこで「音はプリンスが作っていて、ヴォーカルが女性という体裁のものはないかしら」
と探してみた。
するとあるんですね、シーラEとか、
本作に出演しているアポロニア率いるアポロニア6とか。
チャカ・カーンの名曲『Feel 4 you』なんかもプリンスの作品だし、
比較的新しめのところではモニー・ラブの『BORN 2 B.R.E.E.D.』にも絡んでいる。
ペイズリー・パーク絡みも含むとすれば、元ミッシング・パーソンズのデイルのソロにも
プリンスサウンドの片鱗は感じられる(かなり薄味なんだけど)。
ここらへんは好き、っていうかかなりイイ!
これで少なくとも「プリンスが作る音は好き」ということはわかった。
そしてこの映画を観賞するに至り、もうひとつ理解できたことがある。
プリンスが非常にチャーミングな男である、という事実。
思ったより全然小柄であった。
幼少の頃マリリン・モンローの写真をみて「女装?」と思ったことがあるのだが、
写真には実在のスケールを飛び越えて、嘘を突き通す力がある。
見る者を圧倒するような、肥大化したイメージを提示することが可能なのだ。
アメリカに住んでいれば日常的に歌い踊るプリンスの姿を
目にすることもできたはずだが、
日本だとファンでない限り、
写真を見るだけでもうお腹いっぱいになるようないでたちである。
しかし出っ張った頬骨、モジャモジャしたもみあげが
どアップになったクローズショットだけで彼の魅力を判断したのは、大きな誤りであった。
加えてこの映画でも充分に堪能できる、ステージ上でのショーマンシップの高さ。
ライブで毎回あんなテンションだったら、人気が出て当たり前だ。
この映画のサントラ的な役割も果たしている大ヒットアルバム『パープルレイン』は、
かなり大衆向けということもあり、僕も所有しているが、
いま一度他の作品にもトライしてみようと思う次第であった。
余談だが、前述のアポロニア6はかなり好き。
コルセット姿で男を挑発するというアプローチで
キワモノ路線をひた走ったグループだ。
プロデュースはもちろん、プリンス。
現在のR&B界でもこうしたビアッチ路線は健在だが、
当時はまだまだ「やらされている」感が濃厚に漂っており、公開SMぽくて笑える。
実は前身にヴァニティ6というガールグループがあり、
フロントのヴァニティは本作でプリンスの相手役を務める予定だったのだが、
撮影中に降板したらしい。
トップレスシーンがあるので、いい加減堪えられなくなったのかも……。
ヴァニティ→アポロニアとフロントは替わったのだが、
バックの2人はそのままというグループ構成にも、一抹の哀愁が漂っている。
しかしこの2人が、結構キャラ立ちしているのだ。
”スーザン”がロリータ路線で、
”ブレンダ”が哀しいほどの蓮っ葉路線。
ソウル界ではその後もアン・ヴォーグからデスチャまで様々な
ガールグループが登場したが、
ブレンダのようなスポイルキャラは、類を見ない。
本作でもクチャクチャガムを噛みながら歌い踊るブレンダの勇姿(?)が
確認できるので、物好きな方はチェックしてみて欲しい。
原題:KILLING ME SOFTLY
製作年:2002年
製作国:アメリカ/イギリス
監督:チェン・カイコー
出演:ヘザー・グラハム、ジョゼフ・ファインズ、
ナターシャ・マケルホーン、イアン・ハート

_________________
中国映画の巨匠であるチェン・カイコーが
アメリカ製作、俳優も欧米人という環境の中で監督した作品。
もともと”表現”として映画を撮り始めた経緯のある監督が、
成功を収めた後、映画大国に乗り込んで撮った作品とはいかなるものか、
という興味から鑑賞してみた。
過去にも監督のインタビュー映像なんかを見たことがあるのだが、
きっと、異国人にはうかがいしれない何かを背負っているのだろう。
感情を明快に表すタイプでなく、腹に一物秘めていそうな
「食えない男」というイメージがあった。
「郷に入っては郷に従う」とでもいうのか、
本作は特に目新しさのない、娯楽サスペンス映画に仕上がっている。
これで成功を収めれば次の段階があったのかもしれないが、
興行的に奮わなかった様子。
ウォン・カーウァイの『マイ・ブルーベリー・ナイツ』は、
この轍を意識して作られたのだろうか?
まぁそれはそれで「キャストが欧米人になっただけ」と、
ファンから叩かれているみたいだが……。
個人的には、チェン・カイコーの腹黒さに一票かな。
ヒロインを演じたヘザー・グラハムは、
若き日のマギー・スミスを髣髴とさせるイギリス人顔。
過激な情事に飛び込んでいく”情熱的な女”を演じるには、
ちょい役不足という感じが否めない。
こういう素材は、演出面でもっと追い込まないと味が出てこないと思うのだが……。
監督と女優の信頼関係が希薄では、それもむずかしかったのだろう。
ただ、”好奇心が強い女”という表の顔にはよくはまっている。
この映画のような恋愛関係、個人的に身に憶えがあるので、
親近感を感じることはできた。
”好奇心が強い女”がネット社会に生きるとどうなるか。
”秘密が多い男”との激情恋愛を、猛スピードで破綻させてしまいます。
製作年:2002年
製作国:アメリカ/イギリス
監督:チェン・カイコー
出演:ヘザー・グラハム、ジョゼフ・ファインズ、
ナターシャ・マケルホーン、イアン・ハート
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中国映画の巨匠であるチェン・カイコーが
アメリカ製作、俳優も欧米人という環境の中で監督した作品。
もともと”表現”として映画を撮り始めた経緯のある監督が、
成功を収めた後、映画大国に乗り込んで撮った作品とはいかなるものか、
という興味から鑑賞してみた。
過去にも監督のインタビュー映像なんかを見たことがあるのだが、
きっと、異国人にはうかがいしれない何かを背負っているのだろう。
感情を明快に表すタイプでなく、腹に一物秘めていそうな
「食えない男」というイメージがあった。
「郷に入っては郷に従う」とでもいうのか、
本作は特に目新しさのない、娯楽サスペンス映画に仕上がっている。
これで成功を収めれば次の段階があったのかもしれないが、
興行的に奮わなかった様子。
ウォン・カーウァイの『マイ・ブルーベリー・ナイツ』は、
この轍を意識して作られたのだろうか?
まぁそれはそれで「キャストが欧米人になっただけ」と、
ファンから叩かれているみたいだが……。
個人的には、チェン・カイコーの腹黒さに一票かな。
ヒロインを演じたヘザー・グラハムは、
若き日のマギー・スミスを髣髴とさせるイギリス人顔。
過激な情事に飛び込んでいく”情熱的な女”を演じるには、
ちょい役不足という感じが否めない。
こういう素材は、演出面でもっと追い込まないと味が出てこないと思うのだが……。
監督と女優の信頼関係が希薄では、それもむずかしかったのだろう。
ただ、”好奇心が強い女”という表の顔にはよくはまっている。
この映画のような恋愛関係、個人的に身に憶えがあるので、
親近感を感じることはできた。
”好奇心が強い女”がネット社会に生きるとどうなるか。
”秘密が多い男”との激情恋愛を、猛スピードで破綻させてしまいます。