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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。 同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
原題:BORDERTOWN
製作年:2006年
製作国:アメリカ
監督:グレゴリー・ナヴァ
出演:ジェニファー・ロペス、アントニオ・バンデラス、
マヤ・ザパタ、マーティン・シーン

________________________
以前映画館で予告編を見て、気になっていた1本。
アメリカとの国境に面した、メキシコのフアレスという街で、
強姦、殺害遺棄された女性たちが、
何千人も発見されているという実話を元に紡がれた物語である。
僕は本作を観るまでこの事実について何も知らなかったのだが、
一連の殺人の背景には、1994年に発効された北米自由貿易協定があるようだ。
日本にも米の輸入自由化を迫っているアメリカが、
自国への経済効果のため、この協定をフル活用していることは容易に想像できる。
そしてメキシコ国内では、輸出量を増やすことで利益を得た富裕層と、
安価な輸入作物に押され困窮にあえぐ貧困層(農民)との間に、
大きな格差が広がっている。
加えて貧困層は、日本を含む海外資本の工場用に土地を奪われ、
1日数ドルという賃金で、奴隷のように酷使されているのだ。
一連の事件の餌食となった女性たちは、
深夜まで続いた工場での労働の後、
遠方にある住居へと帰宅する際に襲われたという。
電気や水道などの基本的な設備も充分に整っていない貧民窟は、
ただでさえ危険な上に、周辺に砂漠もあるという過酷な環境だ。
犯罪の隠蔽にはうってつけなのである。
この事件の悲惨さは、貧困層の女性の人権が徹底して蹂躙されているところにある。
政府は国内の富裕層拡大により促進される、
国力の増大に期待をかけており、
北米自由貿易協定の存続を望んでいる。
多くの犠牲が払われている過去と現状には、目をつぶっておきたいのだ。
一連の事件に関して検挙、逮捕された人物は一人もいないというのだから驚く。
DVDの特典映像に収録されたインタビュー映像の中で、
グレゴリー・ナヴァ監督は、「女性たちが使い捨てにされている」と訴える。
本作の製作にあたり、脅迫や妨害にも遭遇しており、
フアレスでの撮影中には、スタッフを誘拐、監禁されたというのだから酷い。
全く、国際的な醜聞ではないか。
作品内でも描かれていることだが、メキシコでは警察権力までもが一丸となって、
一連の事件を闇に葬ろうとしている。
先進国で発生する、精神異常の単独犯による連続殺人とは、
事件の質そのものが異なるのだ。
しかし純粋に映画として観ると、
本作は所詮”社会派サスペンス”の域にとどまっている。
ストーリー展開、演出ともに凡庸であり、
作品として突出した部分に欠けている。
散見されるドキュメント映像のような編集法や、
荒涼とした砂漠を映し出す”巧みな色使い”が印象に残るぐらいだ。
だがそうした仕上がりは、監督の確信犯的な戦略とも受け取れる。
すでにメキシコでは、この問題を扱った『消えた少女たち』(2001年)という
ドキュメンタリー・フィルムが製作されているが、、
マジョリティの関心を集めるまでには至らなかった様子。
敢えて観衆レベルに合わせた娯楽作品に仕立てることで、
より広範囲に問題を提起できると考えたのではないだろうか?
だが努力も虚しく、本作の全米公開は見送られた。
この事実からも、問題の寒々しい背景はさらに明確に浮き彫りとなってくるのである。
このブログのリード部分にも記しているが、
僕は映画をアートとして、娯楽として楽しみたいと、基本的には思っている。
だが映画は、一介の視点から政治の腐敗を告発するメディアとしても有効という事実に、
時に気づかされる。
その意味で本作には、内容以前の価値があった。
製作年:2006年
製作国:アメリカ
監督:グレゴリー・ナヴァ
出演:ジェニファー・ロペス、アントニオ・バンデラス、
マヤ・ザパタ、マーティン・シーン
________________________
以前映画館で予告編を見て、気になっていた1本。
アメリカとの国境に面した、メキシコのフアレスという街で、
強姦、殺害遺棄された女性たちが、
何千人も発見されているという実話を元に紡がれた物語である。
僕は本作を観るまでこの事実について何も知らなかったのだが、
一連の殺人の背景には、1994年に発効された北米自由貿易協定があるようだ。
日本にも米の輸入自由化を迫っているアメリカが、
自国への経済効果のため、この協定をフル活用していることは容易に想像できる。
そしてメキシコ国内では、輸出量を増やすことで利益を得た富裕層と、
安価な輸入作物に押され困窮にあえぐ貧困層(農民)との間に、
大きな格差が広がっている。
加えて貧困層は、日本を含む海外資本の工場用に土地を奪われ、
1日数ドルという賃金で、奴隷のように酷使されているのだ。
一連の事件の餌食となった女性たちは、
深夜まで続いた工場での労働の後、
遠方にある住居へと帰宅する際に襲われたという。
電気や水道などの基本的な設備も充分に整っていない貧民窟は、
ただでさえ危険な上に、周辺に砂漠もあるという過酷な環境だ。
犯罪の隠蔽にはうってつけなのである。
この事件の悲惨さは、貧困層の女性の人権が徹底して蹂躙されているところにある。
政府は国内の富裕層拡大により促進される、
国力の増大に期待をかけており、
北米自由貿易協定の存続を望んでいる。
多くの犠牲が払われている過去と現状には、目をつぶっておきたいのだ。
一連の事件に関して検挙、逮捕された人物は一人もいないというのだから驚く。
DVDの特典映像に収録されたインタビュー映像の中で、
グレゴリー・ナヴァ監督は、「女性たちが使い捨てにされている」と訴える。
本作の製作にあたり、脅迫や妨害にも遭遇しており、
フアレスでの撮影中には、スタッフを誘拐、監禁されたというのだから酷い。
全く、国際的な醜聞ではないか。
作品内でも描かれていることだが、メキシコでは警察権力までもが一丸となって、
一連の事件を闇に葬ろうとしている。
先進国で発生する、精神異常の単独犯による連続殺人とは、
事件の質そのものが異なるのだ。
しかし純粋に映画として観ると、
本作は所詮”社会派サスペンス”の域にとどまっている。
ストーリー展開、演出ともに凡庸であり、
作品として突出した部分に欠けている。
散見されるドキュメント映像のような編集法や、
荒涼とした砂漠を映し出す”巧みな色使い”が印象に残るぐらいだ。
だがそうした仕上がりは、監督の確信犯的な戦略とも受け取れる。
すでにメキシコでは、この問題を扱った『消えた少女たち』(2001年)という
ドキュメンタリー・フィルムが製作されているが、、
マジョリティの関心を集めるまでには至らなかった様子。
敢えて観衆レベルに合わせた娯楽作品に仕立てることで、
より広範囲に問題を提起できると考えたのではないだろうか?
だが努力も虚しく、本作の全米公開は見送られた。
この事実からも、問題の寒々しい背景はさらに明確に浮き彫りとなってくるのである。
このブログのリード部分にも記しているが、
僕は映画をアートとして、娯楽として楽しみたいと、基本的には思っている。
だが映画は、一介の視点から政治の腐敗を告発するメディアとしても有効という事実に、
時に気づかされる。
その意味で本作には、内容以前の価値があった。
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原題:春风沉醉的晚上
製作年:2009年
製作国:中国/フランス
監督:ロウ・イエ
出演:ジャン・チョン、チェン・スーチョン、タン・ジュオ、
ウー・ウェイ、ジャン・ジャーチー、チャン・ソンウェン

___________________
ロウ・イエ監督の最新作。
去年の今ごろ『天安門、恋人たち』(2006年)を観て、
このブログに「新作が楽しみ」なんてのん気なことを書いていたのだが、
監督は天安門事件を描いたばかりに、
国から「映画製作を5年間禁じる」処分を受けたという。
すっかり資本主義化している中国とはいえ、
表現を取り締まる法規制はいまだ健在なのだ。
本作は画面がやたらグラグラしているうえに照明も暗くて、
俳優たちの表情さえよく見えない。
なんだってハンディカメラでこんな観づらい映像を撮っているのか、
これがスタイルのつもりなのかとイライラしたのだが
(というか、平衡感覚がヤラれて頭が痛くなった)、
そんな背景があったとは……。
資金はフランス、香港から助成してもらい、
撮影は国内でゲリラ的に行ったというのだから、頭が下がる。
苦境の中で勇敢に映画作りと向き合っている監督の熱意には、感動させられた。
本作の主人公はゲイなのだが、
中国社会において同性愛は、単なる性の嗜好にとどまらず、
「全体に逆らう生き方」として、二重の異端である。
たまたま先日、大連に一年間留学していたという
ゲイの知人と話す機会があったのだが、
街中にはゲイバーやディスコがあり、
ひと目で同族とわかるゲイとすれ違うこともあるとかで、
開放は進んでいるようだ。
しかし国家のイズムに反する存在として、
負い目を感じるプレッシャーは相当なものだろう。
個を貫くか否か、葛藤する同性愛者の姿は、
現代の中国映画において、さまざまな思想を投影できる格好の素材なのである。
前作と同じく、政治性が前面に押し出された作品ではないが、
環境から生じる影響が、物語に映し出されているのは当然のこと。
中国社会を覆う閉塞感は、外国人に実感として伝わりにくいが、
そんな描写の中にこそ、
現代中国映画の貴重なアイデンティティが含まれていることに、瞠目すべきだろう。
本作に対し「もっと普遍性を」などと的外れな批判を述べる批評家もいるようだが、
そうした意見は、規制を行う中国当局の態度を助長させることを、
よく自覚してもらいたい。
物語は、男×男×女の三角関係が、
奇妙な着地点を見出すのかと思わせたうえで、
最後にきっちりと帳尻合わせを行っている。
「どんな生き方を支持するのか」という監督の意見が
非常に明快に伝わってきたので、好感が持てた。
端正なジャン・チョン、
ガチムチで愛嬌のあるチェン・スーチョンというキャスティングからは、
ゲイ観衆の反応も念頭に入れていることがうかがえる。
次作はフランスで、外国人キャストと撮影中らしいが、
制限のない環境で描くはじめての映画だけに、
真価の問われる作品となりそうだ。
製作年:2009年
製作国:中国/フランス
監督:ロウ・イエ
出演:ジャン・チョン、チェン・スーチョン、タン・ジュオ、
ウー・ウェイ、ジャン・ジャーチー、チャン・ソンウェン
___________________
ロウ・イエ監督の最新作。
去年の今ごろ『天安門、恋人たち』(2006年)を観て、
このブログに「新作が楽しみ」なんてのん気なことを書いていたのだが、
監督は天安門事件を描いたばかりに、
国から「映画製作を5年間禁じる」処分を受けたという。
すっかり資本主義化している中国とはいえ、
表現を取り締まる法規制はいまだ健在なのだ。
本作は画面がやたらグラグラしているうえに照明も暗くて、
俳優たちの表情さえよく見えない。
なんだってハンディカメラでこんな観づらい映像を撮っているのか、
これがスタイルのつもりなのかとイライラしたのだが
(というか、平衡感覚がヤラれて頭が痛くなった)、
そんな背景があったとは……。
資金はフランス、香港から助成してもらい、
撮影は国内でゲリラ的に行ったというのだから、頭が下がる。
苦境の中で勇敢に映画作りと向き合っている監督の熱意には、感動させられた。
本作の主人公はゲイなのだが、
中国社会において同性愛は、単なる性の嗜好にとどまらず、
「全体に逆らう生き方」として、二重の異端である。
たまたま先日、大連に一年間留学していたという
ゲイの知人と話す機会があったのだが、
街中にはゲイバーやディスコがあり、
ひと目で同族とわかるゲイとすれ違うこともあるとかで、
開放は進んでいるようだ。
しかし国家のイズムに反する存在として、
負い目を感じるプレッシャーは相当なものだろう。
個を貫くか否か、葛藤する同性愛者の姿は、
現代の中国映画において、さまざまな思想を投影できる格好の素材なのである。
前作と同じく、政治性が前面に押し出された作品ではないが、
環境から生じる影響が、物語に映し出されているのは当然のこと。
中国社会を覆う閉塞感は、外国人に実感として伝わりにくいが、
そんな描写の中にこそ、
現代中国映画の貴重なアイデンティティが含まれていることに、瞠目すべきだろう。
本作に対し「もっと普遍性を」などと的外れな批判を述べる批評家もいるようだが、
そうした意見は、規制を行う中国当局の態度を助長させることを、
よく自覚してもらいたい。
物語は、男×男×女の三角関係が、
奇妙な着地点を見出すのかと思わせたうえで、
最後にきっちりと帳尻合わせを行っている。
「どんな生き方を支持するのか」という監督の意見が
非常に明快に伝わってきたので、好感が持てた。
端正なジャン・チョン、
ガチムチで愛嬌のあるチェン・スーチョンというキャスティングからは、
ゲイ観衆の反応も念頭に入れていることがうかがえる。
次作はフランスで、外国人キャストと撮影中らしいが、
制限のない環境で描くはじめての映画だけに、
真価の問われる作品となりそうだ。
原題:EYES WIDE SHUT
製作年:1999年
製作国:アメリカ/イギリス
監督:スタンリー・キューブリック
出演:トム・クルーズ、二コール・キッドマン、
シドニー・ポラック、マリー・リチャードソン

________________________
唐突だが、僕が最も好きな映画は、
アンジェイ・ズラウスキ監督、
イザベル・アジャーニ主演の『ポゼッション』である。
夫が持つ”秘密”に懊悩するあまり、
自らも醜悪な”秘密”を作ってしまう女の業を、
極端に描き切った傑作なのだが、
本作の主題は、この映画とよく似ていた。
ただし本作で懊悩するのは男のほう。
妻の心理的な姦淫と、その告白にショックを受け、
自らも”秘密”を作るべく、夜の街をさまよい始める。
健康的なアメリカン・エリート役によくはまるトム・クルーズが、
捨てられた仔犬のように傷つき、
セックスをめぐる冒険へと足を踏み入れていくサマを眺めていたら、
サディスティックな歓びがフツフツと湧き上がってきた。
ここまでは楽しかったのだが……。
本作のハイライトは、豪華絢爛な乱交パーティのシーン。
不気味かつ重厚な映像には一見の価値がある。
しかし物語はその後、
なぜかつまらない謎解きに拘る犯罪劇のようなベクトルに向かってしまう。
何てもったいないのだろう!
これでは、中途半端に古風なラブストーリーではないか。
キューブリックは一体なぜ、
あの洋館でトム・クルーズに全裸を曝させなかったのだろうか
(逆に二コール・キッドマンのヌードは、作品中大した意味もなく、
執拗にカット・インされる)?
実現したら、映画史上でもかなりセクシーな名場面として、
人々の記憶に残ったに違いない。
こうした演出上の手加減や、俳優自身の覚悟不足が積み重なり、
作品全体の質が下がってしまった感は、否めない。
やはりトム・クルーズのような能天気俳優は、
キューブリックと組んでも、この程度なんだなぁ……
(その点『ドッグヴィル』でレイプされまくる女を演じた
二コール・キッドマンの役者魂は、かなり立派である)。
そういえばデイヴィット・リンチ監督の
『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間』も、
堕落した女子高生の”秘密”が物語の鍵となる作品だった。
キリスト教的なオチには肩透かしを食らったが、
一貫しておどろおどろしい演出の印象がすべてを凌駕し、
濃厚なリンチワールドに酔い痴れたものだ。
このテのテーマは最も好きなので、つい評価が厳しくなってしまう。
遺作なだけに、キューブリックにもその底力を見せつけて欲しかった。
製作年:1999年
製作国:アメリカ/イギリス
監督:スタンリー・キューブリック
出演:トム・クルーズ、二コール・キッドマン、
シドニー・ポラック、マリー・リチャードソン
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唐突だが、僕が最も好きな映画は、
アンジェイ・ズラウスキ監督、
イザベル・アジャーニ主演の『ポゼッション』である。
夫が持つ”秘密”に懊悩するあまり、
自らも醜悪な”秘密”を作ってしまう女の業を、
極端に描き切った傑作なのだが、
本作の主題は、この映画とよく似ていた。
ただし本作で懊悩するのは男のほう。
妻の心理的な姦淫と、その告白にショックを受け、
自らも”秘密”を作るべく、夜の街をさまよい始める。
健康的なアメリカン・エリート役によくはまるトム・クルーズが、
捨てられた仔犬のように傷つき、
セックスをめぐる冒険へと足を踏み入れていくサマを眺めていたら、
サディスティックな歓びがフツフツと湧き上がってきた。
ここまでは楽しかったのだが……。
本作のハイライトは、豪華絢爛な乱交パーティのシーン。
不気味かつ重厚な映像には一見の価値がある。
しかし物語はその後、
なぜかつまらない謎解きに拘る犯罪劇のようなベクトルに向かってしまう。
何てもったいないのだろう!
これでは、中途半端に古風なラブストーリーではないか。
キューブリックは一体なぜ、
あの洋館でトム・クルーズに全裸を曝させなかったのだろうか
(逆に二コール・キッドマンのヌードは、作品中大した意味もなく、
執拗にカット・インされる)?
実現したら、映画史上でもかなりセクシーな名場面として、
人々の記憶に残ったに違いない。
こうした演出上の手加減や、俳優自身の覚悟不足が積み重なり、
作品全体の質が下がってしまった感は、否めない。
やはりトム・クルーズのような能天気俳優は、
キューブリックと組んでも、この程度なんだなぁ……
(その点『ドッグヴィル』でレイプされまくる女を演じた
二コール・キッドマンの役者魂は、かなり立派である)。
そういえばデイヴィット・リンチ監督の
『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間』も、
堕落した女子高生の”秘密”が物語の鍵となる作品だった。
キリスト教的なオチには肩透かしを食らったが、
一貫しておどろおどろしい演出の印象がすべてを凌駕し、
濃厚なリンチワールドに酔い痴れたものだ。
このテのテーマは最も好きなので、つい評価が厳しくなってしまう。
遺作なだけに、キューブリックにもその底力を見せつけて欲しかった。
原題:A STAR IS BORN
製作年:1954年
製作国:アメリカ
監督:ジョージ・キューカー
出演:ジュディ・ガーランド、ジェームズ・メイソン、
ジャック・カーソン、トミー・ヌーナン

________________________
僕には悪いクセがある。
長い映画と聞くとつい、気を重たくしてしまうのだ。
おかけで高名な『G』とか『M』とか、いまだに観ていない
(恥ずかしくてタイトルを伏せたくなるほど、基本的な古典)。
5年くらい前にソフトを買ったままの『巨星ジーグフェルト』とか、
『ゴッドファーザー』とか、ヴィスコンティの大作とか、
「観たいんだけど……」という作品はいっぱいあるので、
今年は少しずつ片付けていこう~っと。
ということでこの作品も、結構前にソフトを買っていた。
ランニングタイムは175分……。
内容としては、当時流行っていたストーリー重視のミュージカルで、
ショウビズの内幕ものだ。
内幕ものの映画は結構観てきたが、
個人的には『サンセット大通り』と『イヴの総て』にとどめを刺す。
同じ1950年に公開されたアメリカ映画で、アカデミーの作品賞を争った2本であり、
いずれも底意地の悪い脚本が素晴らしい。
また1967年には『哀愁の花びら』という、やはり内幕ものの作品が公開されている。
そして本作は、その中間に当たる1954年の公開だ。
『サンセット大通り』と『イヴの総て』は、スターの相克や妄執など、
おどろおどろしい人間模様を描くことに主眼を置いた作品だった。
本作はハリウッド地獄の一端として、
アルコールに蝕まれたスターの姿を垣間見せる。
さらに『哀愁の花びら』は、薬物に依存するスターの凋落を描いていた。
タブーの開陳も、時代ごとに段階を経ているというわけだ。
最もハリウッド・バビロンの全容は、
今後も映画などで表現できる程度の代物ではないようだが……。
主演のジュディ・ガーランドは、いわずもながの大スターで、
ふた昔まえくらいのゲイ・アイコン
(当時のスターには珍しくゲイ・フレンドリーであったという)。
いま観るとあまりにもスタンダードになり過ぎていて真価がわかりにくく、
ジレンマを感じないでもない。
彼女が登場した時代の白人女性歌手には、
パワフルに朗々と歌い上げるタイプが珍しかったのだろうが、
現代にはそんな歌手、掃いて捨てるほどいるので、
実感として彼女のユニークさを把握するまでに至れない。
まぁ容姿に普遍的な魅力がない、というのが最大の欠点なのかもしれないが……。
しかし、唄も踊りも確実にこなす姿は、本作でも充分確認できる。
先述のようにストーリー重視に移行した時代のミュージカル作品なので、
重厚なセットにおける長回しはないのだが、
豪邸の居間でそこら中の家具に飛び乗りながら、
稽古着のまま歌い踊る姿からは、唯一無二の個性が放たれていた。
本作ではアル中の落ち目俳優である夫を、
献身的に支える役柄を演じていたジュディだが、
実生活では、アルコールや薬物にどっぷりはまっていた時期にあたり、
遅刻、早退は当たり前。撮影をすっぽかすことも多々あったという。
その割に踊りも演技もしっかりこなしていて、プロだなぁ~……とか
思ってしまったが、そのぐらいの前知識をスパイスとして効かせて観なければ、
175分はちょっとキツイな、というメロドラマだった。
製作年:1954年
製作国:アメリカ
監督:ジョージ・キューカー
出演:ジュディ・ガーランド、ジェームズ・メイソン、
ジャック・カーソン、トミー・ヌーナン
________________________
僕には悪いクセがある。
長い映画と聞くとつい、気を重たくしてしまうのだ。
おかけで高名な『G』とか『M』とか、いまだに観ていない
(恥ずかしくてタイトルを伏せたくなるほど、基本的な古典)。
5年くらい前にソフトを買ったままの『巨星ジーグフェルト』とか、
『ゴッドファーザー』とか、ヴィスコンティの大作とか、
「観たいんだけど……」という作品はいっぱいあるので、
今年は少しずつ片付けていこう~っと。
ということでこの作品も、結構前にソフトを買っていた。
ランニングタイムは175分……。
内容としては、当時流行っていたストーリー重視のミュージカルで、
ショウビズの内幕ものだ。
内幕ものの映画は結構観てきたが、
個人的には『サンセット大通り』と『イヴの総て』にとどめを刺す。
同じ1950年に公開されたアメリカ映画で、アカデミーの作品賞を争った2本であり、
いずれも底意地の悪い脚本が素晴らしい。
また1967年には『哀愁の花びら』という、やはり内幕ものの作品が公開されている。
そして本作は、その中間に当たる1954年の公開だ。
『サンセット大通り』と『イヴの総て』は、スターの相克や妄執など、
おどろおどろしい人間模様を描くことに主眼を置いた作品だった。
本作はハリウッド地獄の一端として、
アルコールに蝕まれたスターの姿を垣間見せる。
さらに『哀愁の花びら』は、薬物に依存するスターの凋落を描いていた。
タブーの開陳も、時代ごとに段階を経ているというわけだ。
最もハリウッド・バビロンの全容は、
今後も映画などで表現できる程度の代物ではないようだが……。
主演のジュディ・ガーランドは、いわずもながの大スターで、
ふた昔まえくらいのゲイ・アイコン
(当時のスターには珍しくゲイ・フレンドリーであったという)。
いま観るとあまりにもスタンダードになり過ぎていて真価がわかりにくく、
ジレンマを感じないでもない。
彼女が登場した時代の白人女性歌手には、
パワフルに朗々と歌い上げるタイプが珍しかったのだろうが、
現代にはそんな歌手、掃いて捨てるほどいるので、
実感として彼女のユニークさを把握するまでに至れない。
まぁ容姿に普遍的な魅力がない、というのが最大の欠点なのかもしれないが……。
しかし、唄も踊りも確実にこなす姿は、本作でも充分確認できる。
先述のようにストーリー重視に移行した時代のミュージカル作品なので、
重厚なセットにおける長回しはないのだが、
豪邸の居間でそこら中の家具に飛び乗りながら、
稽古着のまま歌い踊る姿からは、唯一無二の個性が放たれていた。
本作ではアル中の落ち目俳優である夫を、
献身的に支える役柄を演じていたジュディだが、
実生活では、アルコールや薬物にどっぷりはまっていた時期にあたり、
遅刻、早退は当たり前。撮影をすっぽかすことも多々あったという。
その割に踊りも演技もしっかりこなしていて、プロだなぁ~……とか
思ってしまったが、そのぐらいの前知識をスパイスとして効かせて観なければ、
175分はちょっとキツイな、というメロドラマだった。
原題:I ♥ Huckabees
製作年:2004年
製作国:アメリカ
監督:デヴィット・O・ラッセル
出演:ジェイソン・シュワルツマン、ジュード・ロウ、マーク・ウォールバーグ、
ダスティ・ホフマン、リリー・トムリン、イザベル・ユペール、ナオミ・ワッツ

________________________
ユペールの出演作だから手に取った。
ジュード・ロウにしても欧州の俳優なので、
ハリウッドへの顔見世的な駄作かもと
期待はしていなかったのだが、割と面白かった。
世渡り上手と下手が登場する現代的な寓話で、
上手には鼻持ちならないエリートビジネスマン、
下手には環境保護活動家という役どころが、それぞれあてがわれている。
極資本主義の米国作品らしい設定だ。
世渡り上手とされるのは、社会のレールに乗り、キャリアを築ける人間。
パーティなどで一緒にいて楽しいのは、間違いなくこちらなのだろうが、
中身はペラペラ、非常に脆い倫理観の上でバランスを取っているので、
折につけ品性の下劣さが顔を出す。
世渡り下手はレールに乗り損ねた分卑屈で、所作も洗練されていないが、
物事の真理を見極めたいという志だけは持っている。
しかしこちらとて、油断をするとひね媚びた名誉欲が顔を出す。
こうした諸行無常を描くうえで、
本作は設定や脚本に、ライトな哲学アプローチを持ち込んだ。
世渡り上手にも世渡り下手にも「もっと思想を」、と
ブラックユーモアたっぷりに、両成敗な立場で問いかけている。
明快な対立構造を描いたアメリカ映画というのは、枚挙に暇がない。
今っぽい設定として、ジョックVSオタクの学園ものだと、
演出の八割がたでオタクの惨めさを際立たせ、
最後に逆転劇を用意していたりする。
逆に特定の職業にスポットを当てた物語の場合は、
エリートが悪役を担う場合が多いのではないか。
デヴィット・O・ラッセル監督の作品は初めて観たが、
生粋のNY人らしい。
本作を観る限り、ありふれた題材へのグラデーションのつけ方がユニークで、
機知に富んでいた。
この分だとウディ・アレンや、スパイク・リーに近いセンスを
持っているのではないかと、期待大。他の作品も観たくなった。
製作年:2004年
製作国:アメリカ
監督:デヴィット・O・ラッセル
出演:ジェイソン・シュワルツマン、ジュード・ロウ、マーク・ウォールバーグ、
ダスティ・ホフマン、リリー・トムリン、イザベル・ユペール、ナオミ・ワッツ
________________________
ユペールの出演作だから手に取った。
ジュード・ロウにしても欧州の俳優なので、
ハリウッドへの顔見世的な駄作かもと
期待はしていなかったのだが、割と面白かった。
世渡り上手と下手が登場する現代的な寓話で、
上手には鼻持ちならないエリートビジネスマン、
下手には環境保護活動家という役どころが、それぞれあてがわれている。
極資本主義の米国作品らしい設定だ。
世渡り上手とされるのは、社会のレールに乗り、キャリアを築ける人間。
パーティなどで一緒にいて楽しいのは、間違いなくこちらなのだろうが、
中身はペラペラ、非常に脆い倫理観の上でバランスを取っているので、
折につけ品性の下劣さが顔を出す。
世渡り下手はレールに乗り損ねた分卑屈で、所作も洗練されていないが、
物事の真理を見極めたいという志だけは持っている。
しかしこちらとて、油断をするとひね媚びた名誉欲が顔を出す。
こうした諸行無常を描くうえで、
本作は設定や脚本に、ライトな哲学アプローチを持ち込んだ。
世渡り上手にも世渡り下手にも「もっと思想を」、と
ブラックユーモアたっぷりに、両成敗な立場で問いかけている。
明快な対立構造を描いたアメリカ映画というのは、枚挙に暇がない。
今っぽい設定として、ジョックVSオタクの学園ものだと、
演出の八割がたでオタクの惨めさを際立たせ、
最後に逆転劇を用意していたりする。
逆に特定の職業にスポットを当てた物語の場合は、
エリートが悪役を担う場合が多いのではないか。
デヴィット・O・ラッセル監督の作品は初めて観たが、
生粋のNY人らしい。
本作を観る限り、ありふれた題材へのグラデーションのつけ方がユニークで、
機知に富んでいた。
この分だとウディ・アレンや、スパイク・リーに近いセンスを
持っているのではないかと、期待大。他の作品も観たくなった。