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30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
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映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。    同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
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原題:LOVE AND DEATH ON LONG ISLAND
製作年:1997年
製作国:イギリス
監督:リチャード・クウィート二オースキー
出演:ジョン・ハート、ジェイソン・プリーストリー、
フィオナ・ローウィ



_________________________________

『ベニスに死す』へのオマージュがたっぷり!
社会的地位の高い、ダンディな初老の英国紳士が、
スクリーンで見かけたアメリカン・アイドルを狂おしく恋慕う物語である。

30代にもなると、「そろそろ老後を考えなければ」と思ったりするが、
特に厄介そうだと今からうんざりなのが、性欲や愛欲の処理問題である。
微笑ましいプラトニック・ラブでも、シルバー・セックスでも、
同年代同士ならまだ問題は少なそうだが、
親子ほど開いた齢の差を埋めようとする暴走は、周囲への脅威ともなりかねない。
どのみち老醜を曝すなら、
せめて洗練された恋愛ゲームを演出するぐらいの”年の功”は発揮したいものである。
そのためにはやはり、若いうちに社会的地位を確立しておく努力が、
最低限必要となるだろう。

本作の主人公で高名な文学者のジャイルズ氏は、
若さへの憧憬もあいまって、老いらくの恋へとのめり込むが、
自らの気持ちに振り回され気味だったアッシェバッハ先生に比べ、
アプローチがクール。
偶然の力に頼りながらも、自らのセールス・ポイントを冷静に演出し、
マイ・アイドルとの距離を的確に詰めていく。

こうした展開は『ベニスに死す』よりも現代的で、
コメディタッチの演出に頼る場面も数多くみられた。
しかし鑑賞後には、かの名作に劣らぬロマンチックな印象が残り、
さらに「やるだけやった」満足感までを漂わせるところが、なんとも爽快である。

そして声を大にして評価したいのが、キャスティングの妙。
逞しいバディに愛くるしい童顔のジェイソン・プリーストリーは、
ゲイへのアピール度が極めて高い。
ジャイルズ氏にとっての『ホット・パンツ』シリーズよろしく、
僕も『ビバリーヒルズ高校白書』には全く興味がないのだが、
彼のベビーフェイスだけは強く印象に残っていた。
本作がなければ、今後も彼の演技を目にすることはなかったと思うので、
貴重な機会としてありがたく受け止めた次第。
またジャイルズ役のジョン・ハートは過去に『パートナーズ』という作品で、
ゲイ役を経験済み。
こちらをすでに観ていた人にとっては、さらに楽しめる映画となるだろう。

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原題:DARLING
製作年:1965年
製作国:イギリス
監督:ジョン・シュレンジャー
出演:ジュリー・クリスティー、ダーク・ボガード、
ローレンス・ハーヴェイ



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容姿に恵まれるあまり、周囲からさまざまなものを与えられ、
やがてはイタリアのロイヤル・ファミリーにまで登りつめてしまう女の物語。
しかしその内実は、決してサクセス一色というわけではなく……。

監督はジョン・シュレンジャー。
代表作である『真夜中のカーボーイ』がアメリカ製作なので、
ついアメリカ人なのかと思ってしまうが、実はイギリス出身の監督だ。
彼はゲイで『日曜日は別れの時』や『2番目に素敵なこと』など、
ゲイを題材にした佳作も発表している。

本作は、まだ英国でゲイが法規制の対象だった時代(1967年に解除)に
製作されており、明確な男性同士の関係を描いているわけではないのだが、
劇中にはゲイキャラが多数登場するので、興味深い。
社会的地位が高いのをいいことにオネエバリ出しの男、
主人公の悪友であるカメラマン、そして彼のアバンチュール相手、などなど……。
皆バイセクシュアル型として描かれるので混乱しがちだが、
これは突っ込まれたときに「ほらこの男は、女性とも関係してますよぉ」と
言い訳するための予防策なのだろう。

主人公を演じたデビュー間もないジュリー・クリスティーは、
外国映画であるにも関わらず、本作の演技でいきなりオスカーを獲得。
トップ女優の座に登りつめている。
しかし個人的には、ダーク・ボガードの魅力を再発見。
主人公の女性を本心では愛しているのだが、自らの誇りを守り抜くため、
ハードボイルドに振舞う大人の男の強さ、酷薄さ、
そして脆さを見事に表現する姿に、思わずしびれてしまった
特に電車の中でジュリーの指を咥えたのち、キスへと雪崩れ込む
ラブシーンの色っぽさがすごい!
通常なら女優が体現する類の「艶」だと思うのだが、
そこはゲイ同士のコラボ(ダーク・ボガードもゲイ)。
男性の魅力をある意味なよなよとした、しかし斬新なかたちでユニークに表現している。
60年代の映画ではあまり観られない稀有の映像として、
作品中最も印象に残るシーンだ。

また60年代ロンドンのヒップなファッション、ライフスタイルを
スタイリッシュに切り取った映像にも注目したい。
『真夜中のカーボーイ』は必要以上にみじめ臭く、
『日曜日は別れの時』も暗めだったので、
監督はこんな映画も撮れるんだな、とびっくり。
『欲望』とか『エヴァの匂い』なんかにも通じるような、
皮肉っぽい洒脱さが、とてもクールだった。

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原題:SAFE
製作年:1995年
製作国:アメリカ
監督:トッド・ヘインズ
出演:ジュリアン・ムーア、ザンダー・バークレー、
ピーター・フリードマン



_________________________________

ニュー・クイア・シネマの旗手として注目されたのち、
メジャーでも成功を収めたトッド・ヘインズ監督の作品で、
「化学物質過敏症」に陥った女性を描く。

本作のヒロインは、高級住宅街にある豪邸で何不自由ない生活を送りながらも、
内面に底知れぬ空虚を抱えている。
やがて精神のバランスを崩した彼女は、
牛乳にはじまり、消毒剤などの化学物質に壮絶な拒否反応を示すようになる。

当時の医学(設定は80年代後半)ではこの病に明確な治療法がなく、
医師や家族からは事実上、見放されてしまう。
そしてヒロインは、同じ病に苦しむ人々が生活する、
人里離れたコミューンにたどり着く。

コミューンの指導者はヒロインやその他の者に、
 「病の原因を他人や社会に求め、責めてはならない」
 「病を含め、自分を愛しなさい」
と説く。
集会場で輪唱したり、皆でいたわり合う様子は、
まるで精神病院か新興宗教のよう。
しかし健常者としての生活が送れず、
医師から明確な病とも診断されない者には、
安らぎを求めるための選択肢がほかにない。
また指導者が提案するセラピー以上の治療法も、ないわけである。

監督はこの過酷な現状に題材を求めながらも、
劇中に登場したコミューンの指導者と同じく、
症状の発症には、何らかの心因的なストレスが加担している、
と考えているように見えた。


僕も環境に拒否反応を示した経験がある。
僕の場合は科学物質ではなく、「音」だった。
壁の薄い築数十年のアパートに住んでいた時期、
階下に引き籠りらしい男性が住んでおり、
夜中じゅう流しているアニメビデオの音で、不眠症になりかけたのだ。
その時期、布団の中でイライラと考え続けていたのは、
 「なぜこんな夜中にテレビを見続けているのか、他人の迷惑を考えないのか」
という、ともすれば厄介な正義感に基づく正論や、
 「明日も仕事なのに眠れない。一体どうすればよいのか」
という不安に基づく被害妄想が多かったような気がする。
幸いこの映画のヒロインのように、
生活の中でひきつけを起こすまでには至らなかったが、
また同じ状況に陥ったらどうなるのか、自分でもわからない。

苦しんだ時期から現在まで、騒音に関して他人に意見を求めると、
世の中には「周りがうるさくても寝れる」という人が、意外に多いことがわかった。
つまり些細な音を「騒音」と捉えてしまう原因は、自分の中に潜んでいるのである。

本作のヒロインは、内気で自分の意見をまともに言うことができない。
作品内ではついに明確にされないが、過去にもトラウマを抱えているようである。
不満を吐き出せず内部に溜め込む一方で、発散する術を持っていないのだ。
強靭な理性に抑圧された身体は、
些細な化学物質(=自然由来ではない物質)に
拒否反応を示すことで、大暴走するのだろうか。
現代社会に生きる怖さについて、改めて考えさせられた。

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原題:Potiche
製作年:2010年
製作国:フランス
監督:フランソワ・オゾン
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェラール・ドパルデュー、ファブリス・ルキーニ、
カリン・ヴィアール、ジェレミー・レニエ、ジュディット・ゴドレーシュ



_________________________________

以前このブログで、オゾン監督の『8人の女たち』をレビューした。
スペシャル・エディションのDVDを購入したタイミングだったはず……。
女優たちへのインタビューが収録された
ボーナス・ディスクもついていたので、
それについての感想も、確か書いたはずである。

カトリーヌ・ドヌーヴは『8人の女』に出演した女優の中で、
名実ともにトップの存在感を放っていた。
それゆえインタビュー中も、歯に衣着せぬ発言がポンポン飛び出す。
おだやかに監督の良い部分を褒め称えながらも、

「監督は女優をうまく撮ると評判だけど、私はそう思わなかった」
「彼は俳優に、自由な演技を認めないの」
「今回私が演じたのは、すごくヤな女」
「監督はこの映画に女優へのオマージュを込めたけど、女性そのものは賛美していない」

と辛辣な意見を口にしていた。その姿からは、
「ここ10年くらいで名前を上げた監督が何? 私は自分の意見を言うわ。
彼を批判したところで、私の地位は揺らがないわよ」というプライドが感じられて、
個人的には「ドヌーヴ様、かっちょええ」と感心したものだ。
この映像を、オゾン監督も当然目にしたことだろう。

そうした”リビング・レジェンド”からの挑発を、
真っ向から受け止めた結果本作の企画が生まれ、
『8人の女』以来のコラボが実現した……、
などと言ったら、ちょっと穿ちすぎ?
しかしドヌーヴ扮する主人公の生き方が徹頭徹尾肯定されている本作は、
正真正銘の”女性賛美”映画だった。

コメディだったせいもあるのだが、
個人的には、とにかく手放しで楽しめた作品。

まずキャラクターの人物像が、よく練り上げられている
(いまどきの観衆が「こんなババァダサい」と退屈しないよう、
ドヌーヴにはビッチな性格も充分加味されている)。

70年代後半という時代背景を忠実に再現しようと試みる、
美術・衣裳のこだわりぶりが楽しい
(娘役の髪型はまんまファラ・フォーセット。
ディスコのシーンはバカラの『Parlez-vous Francais?』でお出迎え、などなど……。
こうしたデティールは、本筋を追う以外の楽しみを与えてくれる)。

映画は基本的に「嘘」であるという前提を、
フル活用した脚本にはご都合主義も目立ったが、
起伏のある展開で、飽きさせない。
そのうえ60代のドヌーヴ、ドパルデューによるラブシーンに、
老醜を超えたロマンチシズムまで与えてしまう、見事な手腕はどうだろう!
これだけの要素を1本に結実させる実力、やはり並大抵ではない。

毎回コメディというわけにもいかないだろうが、
またこんな楽しい作品を撮って欲しいと、
切にお願いしたい気持ちでいっぱいだ。

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原題:TO DIE FOR
製作年:1995年
製作国:アメリカ
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:二コール・キッドマン、マット・ディロン、
ケイシー・アフレック、ホアキン・フェニックス、イリーナ・ダグラス



_____________________________

人は皆「テレビに出たい」と思うのだろうか。
漠然とした願望も含めると、ほとんどがそう願うものなのかもしれない。
しかし、自分の望まないかたちを強いられてまで
テレビに出なければならないとすれば、
大半の人々はその願いを取り下げようとするだろう。

僕は仕事で、紙やウェブ媒体の制作を行っている。
この仕事では、各ページを制作するにあたり、
情報を統一するための「テーマ」なり「切り口」なりが求められる。
そのうえで紹介する情報を選別し、取材へと至るわけだが、
進行上で”ページテーマからのズレ”が生じることも数多い。
企画の趣旨をあらかじめ説明したにも関わらず、
いざ取材、の段階で小さな狂いが生じることは、多々あるのだ。

しかし紙やウェブ媒体の制作には、
先方校正という作業が必ず組み込まれている
(ゴシップ誌などを除く。またこの作業が必須となったのは、ここ25年ぐらいのこと)、
このため最終的な仕上がりにおいて、取材する側とされる側に、
甚だしい見解の相違が生じることは少ない。

ところがテレビ番組の制作上には、先方校正という作業がないのである。
つまり一度出演を承諾して、撮影されたが最後、
あとはどのように編集、放送されても文句を言えないわけだ。
この事実が即、非人道的な情報操作に繋がるわけではないのだが、
考えようによっては、とても恐しいことである。
マスメディアという括りでは同業者にあたるのかもしれないが、
僕にはとてもできない仕事だ。
権力が大きい分、責任も重過ぎるのである。
感覚の一部が麻痺している人間でなければ、
テレビのディレクターなんて勤まらない、と本気で思う。

少し話が変わるが、僕の友人から、3人ほどテレビに出る人間が生まれた。
Aは今やマスメディアの寵児で、引っ張りだこの人気者。
Bはもって今年いっぱいだろうというのが、内輪だけでなく世間一般の評価である。
Cはちょくちょくテレビに顔を出しているものの、ほぼ無名に等しい。

しかしいざテレビに出るとなって、
言動に最も大きな変化を生じさせたのはCであった。
「有名人の●●さんとご飯を食べに行った」などと吹聴して回るのは可愛い方で、
交際費やタクシー代に尋常でない額を使うようになった。
こうした病に浮かされていると、友人の忠告など一切耳に入らなくなるものらしい。
Cはそうした浪費が自分の将来のためになる、と
無邪気に信じ込んでいる様子であった。
たぶん誰かにそう吹き込まれたのだろう。
またCは、素人とともに出演する番組へDを引き込んだ。
説得の文句は「テレビに出られるんだよ」だったそうだ。
Dは何度かその番組に出演したのち、Cの誘いを断るようになった。
Cは「どうして? テレビに出られるんだよ」と繰り返したそうだが、
Dは「だから何?」と考えたようだ。

世の中の一部の人間にとって、テレビに出ることは人生の目的そのものになるようだ。
そこで何をするのかではなく、テレビに出ること自体に意味を見出すのである。
例え自分の予想に反する編集がなされても、大した失望には至らないらしい。

この映画は、テレビの魔力に取り憑かれた人間の、
浅薄な心理や行動を題材にしたサスペンスである。
非常にシニカルな脚本で、ときにコメディを観ているようにも感じられたが、
実際の事件をベースとしているところが、笑えない。
こんな女、身の周りにいたら、さぞかし迷惑だろう……。
しかし日本ですら先述の有様なのだから、
アメリカにはこうした人間がウヨウヨしているに違いない。
行動力や積極性はひと一倍あるのだから、
正しい方向に使えば成功できそうなものだが、
スタート時点で目的そのものを見誤っているのである。
なぜそうなってしまうのだろうか? 答えは簡単。
「そこに思想がない」からである。

しかし二コール・キッドマンの演技は見事だった。
悪女と呼ぶにはちょっとオツムが足りなすぎる役柄だが、
まず喋り方そのものが、他作で観た彼女と随分違う。
軽薄そのものを絵に描いたような成り切りぶりが、憑依のレベルに達しているのである。
自分の中にも当然潜んでいるはずの自己顕示欲を、
拡大表現してみせたのだろう。
女優としてのイメージそのものが固定される危険もあったはずだが、
その後の活躍ぶりを見ると、上手にやり過ごしたようである。

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