忍者ブログ
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
こんな映画も、レビューしてます★
最新コメント
最新トラックバック
プロフィール
HN:
lulabox
性別:
男性
自己紹介:
30代の編集者/ライター。ゲイ。映画、音楽大好きですが、仕事では書く機会がなく...。ので、こちらでは趣味全開にしちゃいます。
popdorianz@yahoo.co.jp
バーコード
ブログ内検索
P R
カウンター
映画はエンターテインメントでありつつも、アートフォームであって欲しいと願っています。    同じような気持ちで映画を観ているひとの慰みになれば幸いです★
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

原題:TO DIE FOR
製作年:1995年
製作国:アメリカ
監督:ガス・ヴァン・サント
出演:二コール・キッドマン、マット・ディロン、
ケイシー・アフレック、ホアキン・フェニックス、イリーナ・ダグラス



_____________________________

人は皆「テレビに出たい」と思うのだろうか。
漠然とした願望も含めると、ほとんどがそう願うものなのかもしれない。
しかし、自分の望まないかたちを強いられてまで
テレビに出なければならないとすれば、
大半の人々はその願いを取り下げようとするだろう。

僕は仕事で、紙やウェブ媒体の制作を行っている。
この仕事では、各ページを制作するにあたり、
情報を統一するための「テーマ」なり「切り口」なりが求められる。
そのうえで紹介する情報を選別し、取材へと至るわけだが、
進行上で”ページテーマからのズレ”が生じることも数多い。
企画の趣旨をあらかじめ説明したにも関わらず、
いざ取材、の段階で小さな狂いが生じることは、多々あるのだ。

しかし紙やウェブ媒体の制作には、
先方校正という作業が必ず組み込まれている
(ゴシップ誌などを除く。またこの作業が必須となったのは、ここ25年ぐらいのこと)、
このため最終的な仕上がりにおいて、取材する側とされる側に、
甚だしい見解の相違が生じることは少ない。

ところがテレビ番組の制作上には、先方校正という作業がないのである。
つまり一度出演を承諾して、撮影されたが最後、
あとはどのように編集、放送されても文句を言えないわけだ。
この事実が即、非人道的な情報操作に繋がるわけではないのだが、
考えようによっては、とても恐しいことである。
マスメディアという括りでは同業者にあたるのかもしれないが、
僕にはとてもできない仕事だ。
権力が大きい分、責任も重過ぎるのである。
感覚の一部が麻痺している人間でなければ、
テレビのディレクターなんて勤まらない、と本気で思う。

少し話が変わるが、僕の友人から、3人ほどテレビに出る人間が生まれた。
Aは今やマスメディアの寵児で、引っ張りだこの人気者。
Bはもって今年いっぱいだろうというのが、内輪だけでなく世間一般の評価である。
Cはちょくちょくテレビに顔を出しているものの、ほぼ無名に等しい。

しかしいざテレビに出るとなって、
言動に最も大きな変化を生じさせたのはCであった。
「有名人の●●さんとご飯を食べに行った」などと吹聴して回るのは可愛い方で、
交際費やタクシー代に尋常でない額を使うようになった。
こうした病に浮かされていると、友人の忠告など一切耳に入らなくなるものらしい。
Cはそうした浪費が自分の将来のためになる、と
無邪気に信じ込んでいる様子であった。
たぶん誰かにそう吹き込まれたのだろう。
またCは、素人とともに出演する番組へDを引き込んだ。
説得の文句は「テレビに出られるんだよ」だったそうだ。
Dは何度かその番組に出演したのち、Cの誘いを断るようになった。
Cは「どうして? テレビに出られるんだよ」と繰り返したそうだが、
Dは「だから何?」と考えたようだ。

世の中の一部の人間にとって、テレビに出ることは人生の目的そのものになるようだ。
そこで何をするのかではなく、テレビに出ること自体に意味を見出すのである。
例え自分の予想に反する編集がなされても、大した失望には至らないらしい。

この映画は、テレビの魔力に取り憑かれた人間の、
浅薄な心理や行動を題材にしたサスペンスである。
非常にシニカルな脚本で、ときにコメディを観ているようにも感じられたが、
実際の事件をベースとしているところが、笑えない。
こんな女、身の周りにいたら、さぞかし迷惑だろう……。
しかし日本ですら先述の有様なのだから、
アメリカにはこうした人間がウヨウヨしているに違いない。
行動力や積極性はひと一倍あるのだから、
正しい方向に使えば成功できそうなものだが、
スタート時点で目的そのものを見誤っているのである。
なぜそうなってしまうのだろうか? 答えは簡単。
「そこに思想がない」からである。

しかし二コール・キッドマンの演技は見事だった。
悪女と呼ぶにはちょっとオツムが足りなすぎる役柄だが、
まず喋り方そのものが、他作で観た彼女と随分違う。
軽薄そのものを絵に描いたような成り切りぶりが、憑依のレベルに達しているのである。
自分の中にも当然潜んでいるはずの自己顕示欲を、
拡大表現してみせたのだろう。
女優としてのイメージそのものが固定される危険もあったはずだが、
その後の活躍ぶりを見ると、上手にやり過ごしたようである。

拍手[0回]

PR

material:ふわふわ。り  template:ゆずろぐ

忍者ブログ [PR]